時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

難民報道雑感

時間の速さ(※私は敢えてこの漢字を使います)は恐ろしいですね。あれよあれよという間に、前回更新からまた二ヶ月近く経ってしまいました。お久しぶりの上に唐突ですが、今日は少し自分のことについてお話しをしてから始めようと思います。忙しい忙しいと、誰も訊いていないのを忙しいなどと書いていると、暇に見えるかもしれませんが、忙しかった。そして、ニート晩年などというハンドルネームを下げたまま、とうに35歳になっています。それでは非ニート一年目へと突入したいところですが、フルタイムの仕事もフリーランスの仕事もすっきり辞め、数日前に帰国しました。これで晴れて本当の無職となった訳ですが、右も左もパスモも何もよく分からない浦島太郎状態です。先ずは、さっさと慣れて、中年社会人デビューしたいものです。そんな訳で、久しぶりの日本で、雑誌や平積み状況、ワイドショーなどを観察しています。色々と驚きと訝しみを持って観察しています。祖国なのにカルチャーショックです。

取り敢えず暇になったので、ブログ開始当初の「週刊」という目標を、せめて無職の間は達成していければと思います。

そんな風に帰国準備などでバタバタしていた為、少し書いては、短い内に話題が古くなっては挫けたりなどしていたのですが、これからは「より短くより頻繁に」を目指すべく、今日は、そんな挫折メモをひとつ再利用、とします。

 

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ドイツに暮らしていると、日本の難民政策や多数派世論には、目を耳を疑う事ばかりです。色々と申し上げたい事はあるのですが、特に気になっているのは、難民を危険人物の様に扱う思考方式です。こちらでもそのような流れはあるのですが、難民の出身地への知識も社会に占める外国人の割合も異なる日本では、メディアでの扱い方について、特に配慮をする必要があると考えています。

 

「欧州」難民問題として距離を置きながらも、日本でも注目されていた難民の問題ですが、日本の報道を眺めてみると、難民流入とその問題という取り上げ方が多すぎる様に感じています。難民の流入は当然問題を孕みますから、もちろんそれも大切な事なのですが、難民とその問題という組み合わせでばかり報道される事により、難民を受け入れたくないという国民感情がより強固なものになっていきます。最近ではパリの同時多発テロを受け、反対派は根拠をひとつ増やした訳ですが、そもそも身分証の真贋も明らかにされていませんし、理性的に考えればそのような落とし物をする事も不自然です。

 

先ずは、多数派ドイツ人と難民問題の考え方を少しご紹介したいと思います。

メルケル首相が難民問題の受け入れを発表した時に、あるドイツ人の友人は、「何年も前からある問題なのに、この時期に急に受け入れを表明するなんて、選挙の為の人気取りだ」などと言っていました。この批判の是非はさておき、その前提に、選挙で有利になる規模の国民感情が、難民を助けたいという方向に働いているという事があります。

流入が始まってからも、日本の報道では右翼の集会や難民宿泊施設への放火などが、併せて取り上げられている事がありますが、一部の極右というのは、日本でいうと街宣車で騒音を撒き散らしている人々のようなものです。日本でのヘイトスピーチの様子を取り上げ、最近の日本はこうだ、と報道されれば、平均的日本人は堪ったものではありませんが、同じ様にドイツの極右勢力も平均的ドイツ人を辱めるごく一部の流れなのです。こちらでの雰囲気としては、むしろ難民を歓迎する世論が盛り上がっているという感覚の方が強いので、難民問題と極右の活動が併せて報道される事には違和感があります。

 

ここで、ドイツ人の難民を受け入れていこう、という世論の作られ方ですが、我々市民が感情に流され易いというのは世界的な傾向で、こちらでも所謂「可哀相な写真」が大変な効力を持っています。しかし一般的市民も、可哀相だからと単純に歓迎しているだけではなく、派生し得る問題をそれなりに理解した上で受け入れを支持しています。既に日本とは比べ物にならない数の異文化が混在していますから、派生し得る問題の多くを市民は生活の中で感じています。日本式だと、では受け入れない方が賢明だ、という論理になりますが、この場合、思考がそこで停止してしまっています。そこで停止せずに考えるという事は、その方が賢明だから受け入れなかった場合、この人たちはどうなるのか、という事です。ロヒンギャ問題の際にも顕著だった、「うちは困るよ」という反応は消極的殺人です。「うちは困る」日本人は、シリア難民はサウジアラビアに行けば良いと考える訳ですが、そんな押し付け合いを待っていられる程に悠長な状況であれば、これほど大量の難民など発生しないのです。ここに日本式の鈍感さがある訳ですが、この原因として考え得るものが、上に挙げた難民問題の報道での扱われ方です。何故難民が発生したのか、その人達が過去に送っていた生活がどれほど普通のものであったか、現時点での生活の場がどのようなものになってしまったのか、こういった事をより盛んに難民問題と併せて報じるべきなのです。

 

パリ多発テロのテロリストに難民や移民二世の姿を見れば、受け入れをやめようという感情が働きます。しかし我々は被害者の方にこそ難民の姿を重ね合わせるべきです。テロリストを作るのは人種でも宗教でもありません。テロリストを作るのは社会に拒絶された孤独です。パリの被害者の様に普段の生活が暴力に破壊された人々が、住み慣れた故郷を離れ、命の危険を冒し彷徨っています。ここで、極端な仮定で思考実験をしてみます。パリに今回のようなテロリストが大量に流入、テロリストに街を支配される。そしてそのテロリストと戦う名目で、外国の武力が市民を巻き込む空爆を実施する。家や仕事を失い幼児を連れて命がけで移動した土地では、自分と同じ母国語を話すテロリストが居る為に受け入れを拒まれる。労働目的の難民申請があったからと、自分とは関係のない人の行為を理由に拒まれる。ある別の地では言語や文化的背景が異なるから溶け込めないでしょう、と受け入れを躊躇される。そんなことはないでしょう。この難民がパリ市民であれば、受け入れ超後進国の日本ですら、より多くの手を差し伸べるのではないでしょうか。なぜでしょう。

 

 

「難民とその問題」も考えておかなければいけない大切な事ですが、難民とその発生過程にもっと目を向けなければなりません。難民流入の齎しうる問題を、日本人よりもずっと良く認識しながらも、安全な場所に辿り着いたことを歓迎するドイツ人の姿が、人間らしいものであると思いたいと考えています。

 

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..などと書いた数日後、ドイツ軍事作戦参加のニュースを日本から見ました。これは来週のテーマにしたいです、とここに書いておくことで来週の自分にプレッシャーを掛けます。