時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

積極的平和、即ち暴力の破棄

お久しぶりです。と語りかける程、読者も居ませんが、記事の更新をしなかった3ヶ月間の間にも、難民問題の検索から迷い込んで来て下さった方なども居たようで、以外とマメに更新していた時期より閲覧数が増えていたりもし、まだまだ辞めるつもりはありません。

 

日本のニュースでは安保法案が連日話題となっており、19日の参議院本会議での可決は、こちらでも小さく扱われていました。大変大きな問題を大変軽々しく扱った政権への市民の怒りは、一過性のものではなく、持続的な政治意識の高まりに繋がっていくような感じがします。

相変わらずブログ更新の為の時間が取れない私ですが、ああ、10万人の日本人も、皆忙しいのに頑張っていると思い、ほんの短い記事でも頑張って書こうと思うに至りました。

 

ヤフーニュースで学者リレートークの要旨※1が出ていて、どの方の意見も興味深かったのですが、特に印象的だったのが、石川健治教授の「私のようなものでも」というお話で、それぞれの仕方での政治参加を呼び掛けるものでした。このお話に感化された憲法も軍事も専門でない私のようなものでも、自分の視点を生かしたことを少しずつでも書いていければと思いました。これまでのカテゴリーで言えば「独り言」ですが、長期継続的に、この問題を扱っていくことを目指し、新カテゴリー「私のようなものでも」とします。

 

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反対活動が広がっていく裏で、賛成派も少数派ながら理論を堅めつつある様に感じています。普段あまりこういった問題を意識してこなかった中間層というのは、分かり易い意見に感化されやすいですから、反対派も問題点をよりクリアに分けて提示していく必要があります。その場合、多岐の方面に渡る問題点を個別化して明示していくことが大切であり、そのとき、理論の簡潔化にならない様に注意しなければなりません。あまり極端に飛躍した簡潔化は、その部分が反論可能であることにより、足を掬われる原因となりうるからです。

 

問題点は素人目にもたくさんあるのですが、今回は集団的自衛権に注目し、国際法の意義について少し考えてみたいと思います。そもそも国連憲章を厳密に解釈し、それに忠実であろうとするならば、こちらで扱って来た難民や死刑の問題などで、既に憲章に反している疑いの濃い日本ですが、今回は集団的自衛権に限って読んでみます。

 

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日本の文脈では集団的自衛権が一人歩きをしがちですが、国際連合憲章51条というのは例外的な状況への対応を示したものであり、それ以前の根本的なところに第一章の目的と原則があります。第一章2条4項を、今一度、引用しておきます。「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」※2

 

平和主義は古来からあるものですが、国際的な協定などを用いて、各国が共同して暴力を制限していこうという流れは、20世紀に入ってからのものであるといえるでしょう。第一次世界大戦後にはパリ不戦条約により、国政の手段としての戦争の放棄を、第二次世界大戦後には国連憲章によって、より具体的に平和を作り出すことを約束するに至りました。国際的平和が全ての人類にとっての利益であるということは、今日では世界共通の認識となっています。

ではそれで戦争が無くなったかというと、そんなことは無く、世界は平和とは程遠い状況にあります。条約を結んだ国々も、戦争を放棄せず、その制裁も受けずに済んでいます。こういった場合に、抜け穴となるのが、自衛の論理です。国際法学者・信夫淳平の言葉を引くならば、「極端に云へば、如何なる戦とても正当防衛権又は自衛権の名に於て遂行せんとすれば為し得ぬでないから、不戦の約束は実は一片の気休めに過ぎぬのである。」※3ということです。そして国連憲章の51条もアメリカやロシアが使って来た抜け穴です。

このように戦争の放棄を謳う憲法9条第1項も、単なる気休めになりかねないからこそ、憲法9条第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」※5とあるのです。パリ不戦条約もそうでしたが、身勝手な解釈は、効力を封じ込めることになりかねません。国連憲章51条が適用される範囲は「武力による攻撃(armed attack)」※4です。この表現一つにしても、何を含み何を含まないのか、大変曖昧なものです。国連に報告された集団的自衛権行使の例を挙げれば、コントラ戦争があります。アフガニスタン侵攻があります。アメリカがコントラを支援した理由は何であったでしょうか。9.11は誰による攻撃であったでしょうか。今なお混乱の続くアフガニスタンイラクの状況が、改めて我々に問いかけてきます。武力を使って構築した平和など、どこにあるのでしょうか。

 

不自然な解釈で自己を正当化し、誰にとっても明らかな本来の善き意志を踏みにじる、これは、現在日本で起きている憲法の扱われ方と重なって見えてきます。前出の信夫淳平氏は、国際法の意義をこう表現します。「国際法は国家の対外行動を是が非でも弁護せんがために存在するのではなく、その行動の曲直を一段の高所から法的裁断すべき基準たるに於て存在の意義がある」※3これも現在の日本の問題に呼応し、心に響きます。

 

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賛成派に回る、一般市民の動機としては有事への不安があるでしょう。日本のテレビは、近隣諸国との摩擦を報道する中で、そのような恐怖心を長年にわたり煽り続けています。何かあった時に誰も守ってくれないのではないか、アメリカとの関係が悪くなったら抑止力が無くなるのではないか。効果音やナレーションで、あからさまに視聴者の感情に訴える報道番組は見るに耐えないものがあります。

 

しかしここで、不安を煽る為に作られた極端な状況が起きた場合を、敢えて想定してみます。安保理常任理事国の拒否権が行使されることにより、日本が孤立する。もし日本が平和主義を貫き、全く理不尽な攻撃を受け、孤立したら誰も手を差し伸べてくれない、という仮定です。私はそうは思いません。少なくとも私の暮らすドイツ、私の知るドイツ人に限っては、断言できます。ドイツ人は弱者を見殺しにしませんし、理不尽を許しません。最近では難民問題への対応などを見れば分かることですが、西ヨーロッパにおける人道に関する意識の高さは、日本とは比べ物にならないものがあります。これが、政府の独走や机上の理想主義に限るものではなく、一般市民の価値観の中にまで根付いているものであるということは、普段から直に感じることです。万が一何かあったらと互いに武装を強化し合うのは、銃社会の論理に同じです。平和というのは信頼の中から生まれるものではないでしょうか。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」※5日本国憲法の前文です。

 

 

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参考

 

※1 http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20150917-00049591/

※2 http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/

 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060831

※4 http://www.un.org/en/documents/charter/chapter7.shtml

※5 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html