時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

我々は何を知りたい(と思わされる)か

報道の在り方に関する独り言の連続になってしまいますが、今朝は象徴的な状況がありましたので、短いものをひとつ。

 

先日のパリ多発テロ事件では、メディア批判が各方面で発生しました。例えば、テロリズムとどう戦うかについて議論するもの、パリとベイルートの取り扱われ方の差を疑問視するもの、難民問題と絡めて論じるものや、そういった関連性の操作を危惧するもの、と言った具合です。

日本でもニュースから一般人の発信まで、様々な場で取り上げられていましたが、日本での批判には、世界的時事に関する日本の報道の反応の遅さ、というものもありました。その時は、各媒体の報道と情報を同列に配置するその批判が妥当なものかは判断しかねていたのですが、日本に帰ってくると報道系娯楽番組の多さ、その内容の繰り返しや重複には、辟易させられるものがあり、今更納得しています。

 

数日毎に旬な話題があるようで、例えば今朝は「気象予報士が泣いた」という、そもそも報道すべき内容かも怪しい上に昨日も放送されていたことを、丁寧に再現CGなどを付けて状況説明していました。これが複数局で同時に流れていたので、海外のニュースチャンネルに廻してみるとサンバーナーディーノの事件。こんな事件はテロップで流すぐらいはしても良さそうなものだという気がします。5時間程してからテレビニュースで流れましたが、やはり情報収集という面ではインターネットが速いですね。ただ、我々一般人はそこまで早く知る必要もありませんし、現時点では情報がないというニュースですから、5時間後の短いニュースでも充分だった訳です。問題は比較的重大なニュースがあまり報道されないこと以上に、重要でないニュースが流れて来るテレビの在り方でしょう。私はネット派のモグラですから、10年程テレビのない生活をしていたので、必要以上にテレビの流れている空間に居候している今日この頃、ストレスが心臓に来ます。

 

..という話題から、パリ同時多発テロのメディア批判についての挫折記事へ。

 

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パリのテロに伴う各方面での議論は、それぞれを検証する価値もありますが、注目すべきはそのような議論が、突如蔓延したという現象です。メディアでの扱われ方の差というのは、こちらのブログでも、これまでに何度か触りながらも手に取らなかった話題ですから、これを機に一度考えてみようと思いました。

 

ドイツでのメディア批判で最も多かったものは、パリの同時多発テロ前日に起こったベイルートでのテロについて殆ど報道されていないではないか、というものです。事実から先に述べて置くと、ベイルートに関する報道は各メディアでしっかりと行われていたのですが、そのような批判が突如蔓延した事の意味については考えてみる必要があります。

パリとベイルート、報道はどちらについてもされていますが、取り上げられ方は当然違います。これは別に今日に始まった事でもなければ理由がない事でもありませんから、やはりパリの方に注意が向く自分自身を観察しながら、取り上げ方の差の背景に目を向けてみたいと思います。

 

パリに注目する事を批判する発信を読んでいて気が付く事は、注目の理由を、人々の共感の差と感じているものが殆どであるという事です。これはロヒンギャの回で感じた「命の重みの差」です。しかし、今回の件に関しては、非西欧文化圏でもパリへの感心が大きいという事からも言えますが、共感という点に絞り切れない様々な理由があります。

これは事件の特殊性がやはり一番の理由です。観光や商業がそれなりに発達しているベイルートとはいえ、ヒズボラの本部があるレバノンと、大戦後の平和と自由を謳歌して来たパリとでは、衝撃が違います。「地域の持つ日常のイメージとのギャップ」です。そして、これはブルンジルワンダのメディアでの取り上げられ方の差にも言える事だと思いますが、発生時期の近い類似した出来事は規模の大きい方に注目が集まるという事もあると思います。「規模の差」とします。そして最後に「情報源の量の差」も挙げる事が出来るでしょう。ロヒンギャブルンジ、イエメン、メディアの手に届く情報が少なければ、報道できる事も限られてきます。しかしこの情報量の差は、注目されない出来事に注目しない理由にはなっても、注目されているニュースに注目しない理由にはなりません。ジャーマンウィングス墜落事故のときもそうでしたが、情報に対する要求が、明らかになっている情報の量を上回るという現象が起こるまでです。

 

パリ同時多発テロにおいても、時期尚早の発表や報道、被害者感情に似た社会全体の一体感が目立ちました。シャルリーから4U9525、アランクルディちゃんまで、様々なニュースに共通してみられた、大衆の参加意欲です。ネットユーザーの参加意欲もそれに対する批判も、なぜか自分の道徳性の正当化に徹していて、熱を帯びています。

ここでも、ソーシャルメディアの使用を通じて、我々の意識の在り方が変わったということが影響している様に思います。ハッシュタグを付けたり、シェアをすることで、イベントへ参加することに慣れた我々ですから、参加している、既読であるということを示す必要があるのです。メディアの情報提供と大衆の情報要求、どちらが先とも言えないということはつまり、どちらもが作用し合っているということですが、このような構造がここでは個人の動機として働いています。つまり、共感を持っているから注意を払うのか、注意を払うことで、共感を持っていることを感じたり示したりしたいのかが混同しています。

 

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「私の憎しみを君たちにあげない」などという感動的なインタビューに人々が夢中になっている隙に仏軍爆撃機が出動していて、なんだか涙も乾いてしまいますね。

..というわけで来週はドイツのドイツの軍事作戦について..自分へのプレッシャーです。