時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

秋雨前線異状なし

 

ベルリンはここのところ、シトシトとはっきりしない雨が続いており、あまり気分がぱりっとしませんので、今日は少し砕けた文体での更新で失礼します。

 

安保法制の強行可決から早3週間、オンライン上ではジリジリと安保肯定派の意見が幅を利かせてきているように見受けられます。忘れたのか慣れたのか、喉元を過ぎると諦めてしまういつもの日本人の姿が浮かび上がってきます。そうならないよう頑張っている人々も、たくさん要るようで頼もしいのですが、こちらから観察し易いインターネット上での活動に関して言えば、何だか右翼の人々の方が熱心なようで、これは何か労働時間と関係があるのかもしれませんが、わかりません。レベルの高低に関わらず数が当たるので、世論の流れも傾いているのではないかと不安になります。不安紛れに、レベルを保留して数で対抗と思い、軍事ド素人の私が今日は軍事面について考えてみます。

 

安保法制賛成派と反対派の議論を眺めていると、批判合戦というか、内容から方法論へと本質を外しつつ、二極化が進んでいる様に思われます。そこで気になるのが、議論の進まなさの原因ですが、その最も大きな理由として論点のずれを上げる事が出来ます。賛成派は国防だ、国際社会との協調だと軍事面に注目するのに対して、反対派は、そもそも憲法違反であるから無効だという点から始めたいのです。憲法に関する問題が双方向の議論とならないのは、単純に賛成派から見ても違憲であるからでしょう。いや合憲だ、と頑張っている人も要るようですが、これは賛成派が見ても可哀相になるのでは、と思うぐらい苦し紛れです。一方、反対派はなぜ安全保障の面から攻めづらいかと言うと、これは、新安保法制が安全保障の為に有効だということではなく、反論に必要な情報が足りない事にあると思われます。「もしこうだったら、こうかも」という論理に対して、なぜ「もしこうだったら、こう」なるのかの根拠が分からなければ反論への足がかりがありません。

 

前回は国連憲章に注目し、最終的には社会がうまく行く為には信頼が必要という事を訴えたつもりでした。読み返してみると、我ながらの楽観的平和主義で、もちろん、それが正しいと思ってはいるのですが、説得力という点に於いて弱い様に感じました。この間、友人との(家庭内の諍いについての)会話の中で、「お前はガンジーのせいで何人死んだと思っているんだ」と叱られましたので、今日は少し現実的な側面から検討したいと思い、軍事面に注目、と思い切ります。

しかし根が楽観的ですから、切り口を変えたところで、姿勢は変わりません。ただ、悲観的である事が現実的かと言うと、そんなことはなく、私が「有事にはきっと国際社会が助けてくれると信じている」事と比較しても、「平和憲法を守る日本が日米条約を突如破棄したアメリカに守ってもらえずに人命に関わる攻撃を受けている事態に、国際社会がカウチで眺めている」という想像の方が非現実的です。それ以上に、私の楽観視と比較にもにならない程度において、「中国が攻めてくる」と思う事は非現実的です。中国こそ損得勘定の出来る文化ですから、誰の特にもならない事をするはずがありません。絶対に何もしてこないと言い切れない謎の国家が北朝鮮ですが、これは自衛隊の戦力が上と考える方が自然ですから、やはり理由にはなりません。北朝鮮もそんな事は承知の上でしょうから、他国に攻め込むつもりなど毛頭無く、「何をするか分からない感」の演出によって、他国を牽制しているに過ぎないでしょう。

 

さて、軍事的な側面の中で、私が注目するのは以下の3点です。

 

1.日米同盟と集団的自衛権

2.戦争の形の変化

3.自衛隊の役割

 

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1.日米同盟と集団的自衛権

 

まずは、集団的自衛権の必要性を訴える時に挙げられた、日米同盟についてですが、危機感を煽りたいという事はよく分かるのですが、なぜそういう論理になるのかがよく分からない。大体、憲法を変えてしまえという人々の主張に、アメリカが勝手に押し付けた物だから、などというものがありますが、アメリカの顔色を窺ってその憲法に違反することと、どう理論を整合させるのでしょう。

逆に反対派では、そもそも日米安保条約に、集団的自衛権を日本が行使しないことが明記されているのだから、アメリカの為というのは嘘だ、という意見もあります。しかし私が思うに、日米安保条約に明記されているからこそ、今回の流れはアメリカの意思を汲むもの、或は何らかの圧力があった、低く見積もっても了承を得た上での発言、と考える方が自然ではないでしょうか。日米防衛ガイドラインは、どのような流れで新内容に改訂するに至ったのでしょうか。もし日本側の意向が強く反映された変更であったにも拘らず、勝手に「抑止力が損なわれ得る」などと総理大臣が発言していたとするならば、その発言こそが「信頼を著しく傷つけ」るものですから、何らかの抗議があるはずです。

本当に何かあった時に守ってくれるかなど、本当に何かあるまで分かりませんから、幸いその何かが無い平和な状態ではやはり、約束した事は守るだろうという他者への信頼しかありません。これはアメリカが好戦的な国家である事を考慮するまでもなく、条約の力です。条約が、ある一国との関係に於いて機能しなければ、その他各国との関係が損なわれる訳ですから、アメリカが守らない訳がありません。そんな条約上の「抑止力が損なわれ得る」と言うならば、やはりその根拠を挙げなければなりません。

これは、もし強盗に襲われた時に助けてくれないと困るから、警官に菓子折りを送っておこうという発想です。これがもし、警官の匂わせた提案であったならば、流行りの言葉で言うところのパワハラですね。しかし恩だの義だのは、アジアの文化であって、西洋文化は契約社会です。身近な例で言いますと、前回奢ってもらったから今日は私が奢らなきゃ、と律儀なのはアジア人ばかりです。西洋人相手に見返りを求めて奢るなら、その内容を奢る前に確認しなければ無効です。では、そのような確約を日米が交わしているのでしょうか。そうかも知れません。ではそれを公開して国民の理解を得なければいけません。いや、公開したところで、理解を得る事は出来ないでしょう。憲法違反してまで、集団的自衛権の行使を可能に変更しないと、守ってくれないのならば、条約に反して後付けの条件を加えていくなら、沖縄に土地と平穏を返せ、という事です。

もしもこれが、安倍首相の勝手な発言だとしたら、これは大変な事件です。ドイツには「民衆煽動罪」というものがあり、丁度先週、ペギーダの創立者がフェイスブックの書き込みのせいで、これで公訴されましたが、日本にも是非欲しい法律です。と、話が跳躍してしまいましたが、根拠無く不安を煽ってはいけませんよね。

 

 

2.戦争の形の変化

 

小咄ですが、先週美容院に行った私の母が電話で訴える所によると、日本では最近インターネット上で人気の出始めている予言者とやらが居て、この人が第三次世界大戦を予告した事が恐ろしい、と美容師が言う。白髪を染めてもらいながら母が、未来が予言されうる訳も第三次世界大戦など起こるはずも無いと言ったが、聞き入れてもらえなかったとのこと。

この意見の相違の最も大きな原因は、恐らく両者の想像の中の戦争の在り方の違いでは無いでしょうか。母の中での世界大戦と言えば、前回の第二次世界大戦ですね、老若男女が国の為に命を差し出す、国と国との戦いです。現代の戦争というのは、攻撃もピンポイント化していますし、無人機やドローンなどを使った方が、素人の学生などに銃を握らせるより効率が良いですから、確かにあのような世界大戦は無いでしょう。もっと遡れば大将が草原で、「やあやあ、我こそは~」とやっていた、それが近代では爆弾などを使った戦争となった、形は違えど戦いです。そして今度は無人機やドローンだったり、サイバー攻撃だったりと、また形が変わりつつあります。福島の事故で弱みを見せつけた日本、日本にダメージを与えたければ原発の電力系統数カ所をテロ攻撃で狙えば良いのですから、昔の様に「宣戦布告~」「大艦隊~」などとやられる心配は無くなります。

また、形においてだけではなく、誰と誰が戦うかと言う点に於いても変化が見られます。国際化もグローバル化も進んだ現代に於いて、国家という枠組みが民衆のアイデンティティに占める割合が減っていますから、国への帰属意識も、特定の外国への敵愾心も薄れて行きます。そもそも、戦いを始める時にどうするかというと、独裁体制対民主主義だったり、イスラム教キリスト教だったり、シーア派対スンニ派だったりと、国対国ではない対立の枠組みが作られていきます。ただそこで生まれたというだけの国家の為に戦えない市民も、正しいと信じる主義や信条の為に戦えるという事でしょう。先の大戦でもそもそもは植民地主義打倒ですとか、帝国主義打倒という大義名分が先にある、そして戦争になって行く過程で、他国への敵愾心や自国への愛国心が深められて行きました。アフガニスタン戦争にしてもタリバンだったり、イラク戦争にしてもフセイン政権だったり、倒すべき相手があり、それが国と言う枠組みに掏り替えられて行く。

では日本はそんな枠組みを取った時に、どのグループに入りうるでしょうか。国全体を攻撃する理由となりうる目立った条件は特にありません。国の名の下に海外で被害にあった日本国民について考えれば、近いところでは、シリアの誘拐事件、パキスタンの銃撃事件、ともに「十字軍に加担する日本」が標的にされました。もちろんそれは戦争ではなく、テロリズムだったわけですが、テロリズム対反テロリズムこそが目下の世界戦争の形です。反テロの旗を揚げながらテロに繋がる憎悪に油を注ぐアメリカに協力すればする程に、日本もテロリズムの対象になっていきます。

 

 

3.自衛隊の役割

 

平和主義を自称するなら、自衛隊も廃止すべきと思っているかというと、そんなことはなく、維持で良いと思っています。これは多くの国民が思っている事ですが、大規模災害の際の自衛隊の活躍は見逃せません。ではそれを、集団的自衛権の批判に使った「憲法に従うべき」という考えとどう矛盾させないかと言うと、ずばり「戦力」の新解釈です。憲法では「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」するため「陸海空軍その他の戦力」を放棄するといっているのですから、「戦わない為の武力」です。これは、前回批判した自衛の論理の応用です。全ての戦争が自衛と言い得るのですから、全ての武力も戦わない為の武力と見る事が出来ます。例えば、自衛隊が予算の多くを注ぎ込んでいるミサイル攻撃に対する防衛ですが、これは多くの国民が必要と感じている物だと思います。さて、ここで使われる迎撃ミサイルですが、武力でないという事には無理がありますが、戦う為の武力ではないという事が出来ます。「戦わない為の武力」です。サイバー攻撃への対応然り、生物化学兵器の処理然りです。2.にも述べた様に、戦争の形が変わって来ていますから、これに対応する形に自衛隊の力の入れどころも変わって来ている事と思います。

その上でもう一度、自衛が戦争へ繋がる事態を考えてみます。これは、守る為と言いつつ、必要以上、若しくは不必要な攻撃をする事にあります。この点に注目すると、今回の安保法制への謎は深まるばかりです。安倍総理の説明も説明になっていないし、賛成派のどの論理もしっくり来ない。いっそ安倍総理は理由説明として、シンプルに「親族へのコンプレックスに起因する、僕の個人的なフェティシズムです。」などと言ってくれれば、国民も右拳で左掌をポンと叩いて納得できるのです。

 

では消極的武力を持つべき自衛隊が、どこで積極的な活躍を見せて行くかと言うと、これはやはり災害援助でしょう。起こらない可能性が高い有事に備えるより、起こる可能性が高い自然災害の方にもっともっと重心をずらして行くべきではないでしょうか。「起こる確率」以外にも理由はあります。ひとつは、自然災害は交渉により防ぐことができないという事です。多方面での交流や共同事業で関係を良くすることで、発生しないよう働きかけることが出来ないという事です。もうひとつには、災害援助は自国で不要な時に他国で活用できる、という点があります。今、日本で戦争が無いから、アメリカの為に戦おう、とやれば、敵を作ります。今、日本で災害が無いから、他国で災害救援活動をしよう、とやれば世界中にTomodachiが増えて行きます。特に突発的自然災害の多いアジアで、大いに活躍できる事でしょう。

 

長々と理想を連ね、勝手に思い描く未来の自衛隊の姿、所持戦力を非攻撃型防衛に完全移行、世界各地で災害援助、こうなったらもう名前も変えて欲しくなってきます。平和救命隊、災害救援隊、どれもしっくり来ませんが、取り敢えず緊急時救援隊としましょう。中国でも、災害救助では軍隊が活躍していますが、ああいった作業を、我ガ国ノ緊急時救援隊と合同で行えば、両国隊員が銃を捨て、肩を抱き合ってイマジンを歌い、などと夢は尽きないですね。

 

先週の楽観主義に説得力を付けようと書き始めた今週の記事、却って楽観主義が炸裂してしまいました。でも、じめじめした気分が少し晴れました。秋の長雨は良いものですね。