時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

ブルンジ争乱

 

 

今回はブルンジの争乱を取り上げたいと思います。ぐずぐずとしている間に時間は過ぎ、もはや時事ではなくなりつつありますが、それでも公開します。言い訳ですが、クーデターは失敗しましたが、まだ問題は解決されていません。クーデターは失敗しようと、選挙は延長されようと、事態が収束する気配はありません。今月に入って国連は、内戦状態へ突入することの危惧を表明しました。そしてこの問題が解決されようとも、更なる課題が山積しています。世界で最も貧しい国の一つであり、民族問題を抱え、国民総幸福量は調査国中最下位に挙げられています。

 

隣国ルワンダでの民族対立は有名で、報道のみならず映画化などもされています。一方ブルンジでもフツとツチの民族対立があり、それがやはり大虐殺にまで発展しました。この事実はどれほど知られているでしょうか。報道量の差は何に由来しているのでしょうか。

ブルンジ内乱は比較的小さくしか取り上げられませんでした、これは入ってくる情報の量にも関係していると思われます。日本の新聞では末尾に「か」をつけた形(「ブルンジでクーデターか」など)での報道が目立ちました。また、歴史的事件に関しても被害者数などに大変なばらつきがあります。文中では「x万~y万」のように、各資料より、一番少ないものから一番多いものまでの幅をそのまま示しました。

 

とにかく、自分がブルンジという国について何も知らないので、これを機会に調べてみたいと思い選びました。

 

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ブルンジ基礎知識〉

 

元々は王国。ドイツ、ベルギーの植民地時代を経て62年独立。66年に王制を廃止して以降共和制をとっている。首都はブジュンブラ、国民の大多数がキリスト教

 

 

〈4月末からの出来事〉

 

今回の争乱のきっかけは、憲法で2期までと定められている大統領の地位に、既に2期を務めた現大統領ンクルンジザが3度目の当選を目指し出馬を表明したことに始まる。

これを憲法違反とし、デモを行っていた反対派に警察が発砲、以降双方の間で衝突が起き、死者24~40名、けが人も多数出ている。分裂が表面化した軍内部で対立が激化し、放送局占拠を目指し大統領派と反大統領派がロケットランチャーやマシンガンを使って交戦をする事態へと展開した。このことにより、6月26日に予定されていた選挙は延期されたものの、複数野党はボイコットを表明しており、事態が収束する気配はない。

5月15日には大統領のタンザニア訪問による不在を機に、元諜報機関局長のニヨンバレがクーデターを起こすが、大統領側はこれを挫折したものと発表。蜂起主導者数名が逮捕された。逮捕者の1人であるンダイルキエは、クーデターは失敗したが、軍内部にも反大統領の流れがあることを示せただけでも成果だと話した。5月23日には野党UPD-Zigamibangaの党首が何物かにより殺害された。

 

ンクルンジザ陣営は、05年から10年の第一期は総選挙ではなく議会によって選出されたものである為、これを算入しないものとする。既に2度延期された選挙は7月へ延期されたが、大統領側は、これが最後の期日変更であり、大統領の立候補についても交渉の余地はないとする。

大統領陣営はまた、反体制側が2005年の停戦協定以来初めて銃器を使用したと批難するが人権団体の報告によると、前回の大統領選前にも与党側が複数の殺人や銃器を使用した襲撃、焼き討ちを行っている(全て未訴追)。別の人権団体は2010年以降少なくとも2300人の活動家が政府によって暗殺されたと報告する。

4月以降ブルンジを離れた人は11万人にのぼり、両親や保護者の付き添い無く自力で逃れてきた子供たちも900人にのぼる。タンザニアの難民キャンプではコレラによる死者が30人に達した。

 

反体制派によるデモは、大統領が出馬を表明したことに始まり、以降は、正式に党の代表として選出された(4月28日)ことに対し、裁判所が3期目に向けた現大統領の立候補を正当と判断した(5月5日)ことに対しなど、何かあるたびに、デモ隊が街へ繰り出しているという。しかし、このような事態は既に予測(もしくは予定)されていたものであり、かなり早い時期にそのことを伺わせる動きが見られる。

ちょうど1年前の14年4月、政府が若い支持層を武装化しているとの報告をした国連が国外退去処分を受けている。投票の半年前、14年10月には対立政党党首に誹謗中傷の罪で1年の判決を受けた。14年3月にはジョギングを禁止し対立する党であるMSDの支持者21名がジョギングにより終身刑を言い渡された。

 

 

〈インボネラクレ〉

 

ブルンジから逃げてきた難民の証言を国連が報告するところによると、与党CNDD-FDDの公式な青年組織であるインボネラクレが過激化しており、政府批判者などを法的な制約を受けずに、処刑・誘拐・拷問しているという。インボネラクレは与党の指示で動いており、国家警察や諜報機関から武器や制服、車両の供給を受けているといい、地域によっては実際に警察を超える実権を持っているようである。

インボネラクレとは、クルンジ語で「先を見る者」を意味し、党員は5000~5万人(党員登録をしていない賛同者を含めると200万人とする記事もあるが人口比を考慮すると不自然)に及ぶ。CNDD-FDDは経済成長などの社会発展に力を入れており、その政策を支持する若者や、高等教育を終えた党員も居る。そして党のことを考えれば大統領の出馬は望ましくないと考える党員も実は少なくないという。こういった内部の反対派は、暴力の更なる複雑化と悪化を回避するため、その意見を述べない傾向にあるものの、そういった流れがあるという事実が暴力の抑制に働いていると専門家は見ている。

 

武装している党員は内10%程と考えられている。今回の争乱では手榴弾などの使用も認められるが、平時も棍棒や山刀で武装し、野党支持者や政治的集会に参加した人々に暴力行為を行っていたという。党員は普通25歳以上~35歳以下であり、戦時期に子供時代を過ごした為に教育の機会を失った若者は多く、そういった若者に学歴無しでは決して得られない就職先を約束することで、政治家に利用されている、とある平和活動家は話す。地方ではより簡易に、小額の現金の為に暴力行為に勧誘される若者もあるという。

 

 

〈政治的対立と民族問題〉

 

今回の対立は2010年の選挙以降続いている政治的なものであり、民族的対立ではない。与党CNDDは紛争時にはフツ派の主流反対勢力であったが、与党にとって最大の敵であるFNLも、前身はフツ系反体制組織である。

しかし第一に政治的危機は、和平プロセスを壊すものである。そして05年まで12年間の内戦状態にあったことを考慮すれば、大変に危険な状態である。和平プロセスに於いても、過去を理解し許すという作業に於いても、民族の問題は付いて回る。そのような過去を持った国家では、民族政策も支持の基準になるはずである。ある活動家の話す所では、現与党の反対勢力時代からのメンバーは、戦時のメンタリティから抜け出しておらず、市民生活に完全には復帰できていないという。ンクルンジザ大統領も、72年の虐殺で父を殺され、93年の虐殺と内戦で人兄弟のうち5人を亡くしており、内戦時代は反体制派組織CNDD-FDDのリーダーであった。インボネラクレがコンゴで軍事訓練を受けているという情報があるが、コンゴ東部はルアンダ大虐殺の加害者が集団で流入しており、民族主義的武装グループも複数存在する。特にフツ系武装勢力FDLRがインボネラクレと結束することが危ぶまれる。

 

政治的対立による争乱も、それが民族的対立に波及する危険性は充分に高い。そのような危険性を国民が感じていることは、難民の数が示している。政治的あり方によって危険が及ぶのであれば、その危険は態度により回避できることになる。また、子供たちが親元を離れ難民となる必要も無い。短期間で大規模発生している子供を含む難民は、変えることの出来ない、何か「である」ことによって争乱に巻き込まれる危機感を国民が持っていること、つまりは彼ら自身における対立民族への不信を示しており、民族問題が現在も根強いということである。

 

 

〈民族対立の歴史的背景〉

 

ブルンジにおいて、ジェノサイドに該当する大規模虐殺は72年と93年の二度起こっている。

 

72年5月  ツチ中心の軍部によるフツの虐殺と報復

93年    多数派フツによるツチの虐殺と報復

93~05年  ブルンジ内戦 民族紛争期

 

前回取り上げたミャンマーと同様、ブルンジの民族対立も植民地時代の統治政府に責任が重い。ここでも中央集権化したい宗主国側が、便宜上、人々に身分毎の役割を与えた。そして、そもそもは共存していた複数民族が、差別化されるようになる。民族を明記した身分証の発行もこの時に始まり、教育面などでツチが優遇された。そういった背景から独立後も、13~15%程を構成していたに過ぎないツチが、政府・軍部の重要な位置につく。

 

65年、独立後初の選挙でフツ勢が多数派となる。それにもかかわらず王ムワンブツァ4世の指名を受けツチが首相に就いた。王の国外滞在中に、ツチであるミコンベロが権力の座を奪取し、王制に代わる共和国建立を宣言、そのまま初代大統領の座に付く。在任中の数年間に軍部・公務員の要職からフツを完全排除。69年には、反発するフツがクーデターを起こすも失敗、23名が処刑される。

 

72年、ムワンブツァ4世の息子で国王のンタレ5世が帰国する際に、王に危害を加えないというウガンダとの約束を反古にし国王は拿捕され、何物かによって殺害される。それに伴い大量のフツが逮捕されたことを受けてフツの反発が高まる。時を同じくして憲兵隊のフツによるグループが蜂起、ツチや、蜂起に参加しないフツへの無差別殺人を引き起こし、800~1200名の死者を出した。これに対しミコンベロ大統領に属する軍は大量虐殺を行う。当初は知識階級や軍事訓練を終えたフツが系統的に対象とされたが、やがてフツに対する無差別大量虐殺に発展、その死者数はフツ人口の5%、8万~30万と推定されている。多数のフツは近隣諸国へ逃れた。報復殺人によりツチ側にも3000~1万の死者があった。特に、フツの反乱勢力が、フツ中心の共和国建設をめざし戦った南部の攻撃では多数のツチ犠牲者を出した。

 

この72年虐殺はブルンジに今日まで続く憎悪の連鎖の始まりと言えるが、隣国ルワンダでの大虐殺を理解する際にも重要な意味を持っている。

 

88年フツを2名射殺した警察官がリンチされた。それに対し軍は2万人を殺害、5万3000名の難民が発生した。90年代に入ると、ウガンダで軍に入っていたツチのルワンダ難民がルワンダに侵攻、フツ政府とルワンダ愛国戦線の間で3年間に渡る内戦が始まる。

 

93年、初めての民主主義選挙により、ブルンジ初のフツの大統領、ンダダイエが選出された。しかし間もなく暗殺され、フツによるツチの虐殺が発生、その報復にツチによるフツの虐殺が行われた。2万5000~20万の市民が犠牲になったと報告されている。こういった二度の大虐殺、その他の抗争、迫害、及びツチ主導の国家体制そのものから逃れ、数十万規模のフツの難民がルワンダに避難した。

 

94年、和平協議の帰途にあったルワンダブルンジ両国の大統領搭乗機が撃墜されフツである両大統領が死亡。4月~7月にかけて80万の死者を出すルワンダ大虐殺が起こる。ルワンダ大虐殺後、虐殺に参加した戦闘員はコンゴに逃亡。ブルンジからの難民もコンゴ東部に多い。

 

以上のような憎悪の連鎖と報復殺人の繰り返しは、以降も続き、虐殺のあった93年から武装解除の05年までの12年間、もしくは2000年停戦協議までの7年はブルンジ内戦と呼ばれる。大小の虐殺で計1万5000人程の死者が出た95年をはじめ、多くの大量殺人や紛争状態が続き、この期間の死者は少なくとも25万~30万人と考えられている。

 

2005年より、国際社会の援助を受け、国を挙げた民主化に取り組んでおり、難民の帰省、各過激派の非武装化、及び保安分野への編入、新憲法の制定など、一定の成果を結んでいる。

 

 

〈外国による民主化援助〉

 

国際社会のコミットメントは民主化の流れを自分たちのやり方で援助してきたが、今回のような状況は、それを失敗例にしてしまった。民主的制度の中で権威主義は助長され、対抗勢力はいっそう弱体化した。2010年の選挙も、国際的な監視のもと公正に行われたにも拘らず、与党の圧勝の度合いは、国政選挙としては不自然であると疑う余地がある。

権威主義と長期に渡る権力維持は、ブルンジのみならず、アフリカの様々な国で見られる現象である。権力の長期維持は癒着や腐敗の原因となり易い。ブルキナファソ市民運動を経た政権交替をはじめとして、ナイジェリアやザンビア、マラウィなどで権力者が長く居座った座を降りており、これをアフリカ大陸に於ける民主主義の流れと見ることが出来る。

 

ブルンジにおける民主化の流れのあり方の問題を指摘するツァイト紙の記事から以下一部引用。

 

「遅すぎたブルンジへの心配」  http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-06/burundi-unruhen より

ここで重要なことは、国際社会が安定を最優先事項としてきたことだ。激しい内戦や困難な和平プロセスという側面から、民主化プロセスの欠陥に対処することよりも安定に重きを置いてきた。しかし、この戦略が若い民主主義を弱め、依存関係を生み出し、それがまた、更なる民主化を停滞させる物でもある。今回の危機的状況は、民主主義だけではなく安定そのものに、その影響が波及していることを示している。

 

西欧社会はアラブ社会への民主主義導入で失敗を経験したが、アフリカ諸国で同じ失敗を繰り返さぬよう、それぞれの土地に合った介入方法を検討しなければならない。

 

 

〈感想〉

 

ブログ更新までの期間が少し空くと、書くスピードも落ちて、ますます更新が遅くなる。

 

 

〈参考記事〉

 

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/burundi-demonstrationen-polizei-tote

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/burundi-pierre-nkurunziza-praesident-putsch-militaer

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/burundi-putsch-ende-praesident

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/burundi-pierre-nkurunziza-wahlen

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-06/burundi-unruhen

http://www.faz.net/aktuell/politik/ausland/afrika/putsch-in-burundi-gescheitert-13594569.html

http://www.spiegel.de/politik/ausland/folter-in-afrika-uno-warnt-vor-buergerkrieg-in-burundi-a-1037986.html

http://www.taz.de/NULL/!5010832/

http://www.tagesspiegel.de/politik/die-krise-in-burundi-nach-dem-aufstand-ist-vor-der-revolte/11783804.html

http://www.independent.co.uk/news/world/africa/zedi-feruzi-killed-leader-of-burundi-opposition-party-shot-dead-in-bujumbura-10272563.html?origin=internalSearch

http://www.bbc.com/news/world-africa-13087604

http://www.bbc.com/news/world-africa-33060975

http://www.bbc.com/news/world-africa-26681586

http://www.irinnews.org/report/101418/who-are-the-imbonerakure-and-is-burundi-unravelling

http://www.ibtimes.co.uk/burundi-who-are-feared-imbonerakure-youth-1504301

http://www.news24.com/Africa/News/A-country-of-fear-20150503

http://www.ibtimes.com/africa-watches-burundi-coup-see-if-conflict-spreads-reignites-hutu-tutsi-ethnic-1919449

http://worldnews.about.com/od/africa/a/hutututsiconflicthistory.htm

http://mg.co.za/article/2015-06-11-fearful-children-flee-burundi-on-their-own

http://allafrica.com/stories/201506121733.html

http://www.hrw.org/ja/news/2009/06/03-0

http://www.nytimes.com/2015/05/19/opinion/bridging-burundis-dangerous-divisions.html?_r=1