時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

チャンとスクマランの死刑について

 

 

ブログを始めて、はや6週目、1週間の記事を8~9日かけて書いている為、ズレにズレて先週分はだいぶ遅れての投稿になりました。気が付けばもう週末ですので、今週注目の時事は、少し自由に、思ったことを書いてみたいと思います。一応時事を扱いますが、情報を集めたり論拠を挙げたりせず、コネコネと理屈を練るだけですので、カテゴリーは独り言としました。

 

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今週はドイツでも、ネパールの大地震が連日トップニュースになっていました。本日付け(5月4日)のニュースでは死者が7000人になっており、捜索の状況を考慮すれば、まだ増える可能性があるとのことです。

 

もう一つ、個人的に重大なニュースがありました。4月5日の週に取り上げたアンドリュー・チャンと、マュラン・スクマランの死刑が、他6名と共に執行されたそうです。29日の未明12時半との報道でした。アジア・アフリカ会議の終わった先週の土曜日に、執行72時間前の言い渡しがあったのですが、その後も市民キャンペーンは続き、家族や弁護士も必死の抗議をしました。それでもちょうど三日後に、やはり執行されました。各国政府、EU、国連の声明も、届きませんでした。

 

先週取り上げた難民問題にしても、ネパールの大地震にしても、落ち度のない普通の生活者が多数、命を失っています。このブログを始めてから扱ってきたその他のニュースでも、空爆による死、航空機事故による死、様々な形の死がありました。

これらの出来事と比較すれば、数名の死刑による死が重要ではないとも思うのです。

 

しかし個人的に、まだ強い拘りが残るので、その理由について考えてみました。

 

 

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    スクマランの絵画作品「おじいちゃん、最期の日」

 

 

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記事を書く為にインタビューを読んだり、ビデオを観たりして、情が移ったという部分も単純にあります。でもそれだけではない、何かが引っかかるのです。罪を犯した人間が、既存の法律で定められた罰を受けた、それでも何かとても理不尽な気がして仕方がありません。

 

一番の理不尽さは犯した罪の重さと刑罰のバランスが、自分の倫理規範に当てはまらないということによりますが、チャンとスクマランの場合について考えているうちに、死刑自体の不条理というものを、以前より強く感じるようになりました。

 

死刑というのは二つの部分から成り立っています。死と刑罰です。なぜそんな当たり前のことを書くのかと思われるかもしれませんが、ここが重要な点なのです。(そして今日の記事はこのような当たり前のことばかりを書きます。)

 

先ず死について考えてみます。

死の恐ろしさは、二種類に分けて考える必要があります。一つは死ぬことへの恐怖、これは生きている状態が終わってしまうことの恐ろしさです。もう一つは死にまつわる恐怖で、苦痛への恐怖、残された人の悲しみへの恐怖などがあります。死にまつわる恐怖の種類や度合いは、死に方によって色々です。

しかし、死そのもの、死ぬこと自体の恐ろしさは、死が生きている間は訪れないものである以上、死に方が変わっても同等のものであるはずです。死がどのような形でやってこようと、生きていない状態になることは同じで、誰もが一度経験すると言う点についても公平です。厳密にいえば「経験する」と表現するべきでもありません。経験できるのは死の直前までであり、死そのものが訪れると同時に主観は経験することを止めるからです。

 

誰もが一度出会わなければならない事象である死ですが、その訪れ方について、まず「自然さ」によって細分化することが出来ます。最も自然なものは、いわゆる寿命を全うするということです。しかし老衰の場合も、気候などの外的影響があるでしょう。自然さによる区別を続けると、この外的影響が強制的であればある程、より自然ではない死であることになります。そこで、この対極を強制的な死としましょう。強制的な死は、寿命が早い段階で強制的に中断される場合ですが、病死と殺人による死ではその強制の度合いが異なってきます。突然の天災に巻き込まれるか、テロに巻き込まれるかでは、これもまた自然さの度合いが異なります。これらは、死の原因となる事象の発生の仕方に関係しています。つまり、強制的な死は、事象を誘因した要素の責任能力の有無、その事象が主体的な存在によってひき起されたかによって、大別することが出来ます。

 

殺人事件においては殺人者がいます。この死は、別の主体によってひき起されており、これを悪と見做すことが出来ます。これは具体的な怒りの対象となり得るものです。

地震などの天災の場合、欠陥住宅や避難指示のミスなど、副次的な罪を見つけることは出来るかも知れませんが、直接の原因は自然です。これは罪を負う主体の場合と違って怒りの対象になりません。残された人々は、やり場のない怒り、もしくは悲しみばかりを抱えることになります。自然が、善悪の区別も超えた、人間存在やその死をも含む絶対的なものだからです。人間が抗しきれない力であること、病気が治療法に先立つことを考慮して、病死もこの分類に入れることが出来るでしょう。

 

さて死刑の場合はどうでしょう。

死刑執行に関わる主体一人一人は職務をこなしているだけですので、執行人に至っても罪はありません。死刑を定める法律も、その社会に生きる市民を守る為に作られたという点において善であるはずです。殺人の場合、ある主体が行為者として、一方で被害者という主体がある、つまり主体と主体の対峙する状態にあります。自然災害の場合はより強大・絶対的な力であり、対する一つの主体は、自然におけるその部分に過ぎません。法も市民にとって強大な力を持ちますが、国家間の違いが示すように、自然ほど普遍的なものでもありません。法の定める死刑の下では、異なる主体がそれぞれの部分を成し、協力して組織的に死刑囚の命を絶ちます。自然でもなければ具体的な主体でもありません。法律と複数の主体によって機能する、主体的な力です。一つの主体ではない、主体性をもった何かです。法律は法治社会において、ある意味絶対的なものですが、自然と違って人為的なものです。人為的なものである以上、人為的に変えることも出来れば、善悪の区別を超えるほどの普遍性ももちません。その法の適用される地理的範囲においてのみ効力を持ちます。自然の絶対性に対して一主体はその部分に過ぎないと、先に述べましたが、同じような見方をすると、法の有効な範囲においても主体はその部分を形成するということになります。国家の部分としての個人です。

 

自然の部分である人間が、自然の決定を受け入れるしかないのと同じ方法で、国家はその倫理基準を正しいものとします。死刑執行に関わる労働者が罪を負わないということは、死刑囚が殺されることが正しいということです。こういった正しさは死刑に関わる様々な局面に現れます。死刑判決にいたる裁判手続きでの抵抗は、正当性をもって否定されます。そして処刑の際には全く無抵抗な状態で、正確に命を奪われます。無抵抗の人物は社会に危害を与えることが出来ません。社会を守る為の法が、無抵抗な人の命を奪わなければいけない根拠は何でしょうか。

ここには、間違った誰かでも、超越的な自然でもなく、国家が自分の死を要求する、ということの恐ろしさがあります。悪でも絶対的力でもなく、正義が自分という存在の消滅を求めています。

 

殺人は「自然の死期以前に人の生命を断絶する行為」です。正誤や善悪の評価を保留にすれば、死刑もこれに当てはまります。正誤や善悪は、時間や場所が変われば少しずつ異なるものです。

 

こういったことを可能とする国家の権力という側面に注目して、刑罰について考えてみましょう。

刑罰にもまた二つの側面があります。矯正と復讐です。小さなところでは家庭内から、大きなところでは国家間まで、世界には様々な諍いがあります。世界の大小に関わらず、罰というのは大から小へ、権力者から弱者へ与えられます。親子の例を想像しても、大国の軍事攻撃を想像してもよいのですが、罰を与える立場という権力を有している以上、その権力者は攻撃対象を教育・矯正する責任を負います。逆に言えば、矯正の目的以外での罰は単なる暴力に過ぎません。刑罰についても、国家と個人はやはりこのような権力関係にありますから、刑罰の目的も矯正であるはずです。しかし死刑は原理的にその目的が矯正ではあり得ません。刑の執行が矯正の可能性を完全に断ち切るからです。矯正を目的としないで与える罰ならば、国家権力を行使した暴力の一つの形でしかありません。

 

ここで、この権力に注目して、先ほどの三種類の死を、もう一度捉え直してみましょう。力という観点からも自然は圧倒的上位にありますので、自然の力による決定は絶対的です。与えられた寿命の維持を生きるものの権利とみた場合、自然の力は主体性をもちませんので、それに対して権利の主張をすることが出来ません。そのような変更不可能な定めこそ、自然ということであり、その定める死こそ寿命ということです。殺人者については、人の生命を奪う権利がないのに、力によってそれを実行した場合です。これは当然、個々人のレベルでは許しがたいことです。しかし、これは私個人の拙い考えですが、ある個人が自然の部分であることを考えると、このような局部的な悪の発生もまた、社会全体を俯瞰すると自然である、自然の一部であるとすることが出来ます。よって殺人のような悪については、私の個人的な人間観に基づけば、これを起きないようにすることが出来ないと思うのです。

そのような自然発生する局部的不具合を調整し、国家や社会の安定を人為的に維持させる為の規則が法ではないでしょうか。国家や法律というのは、そのような人為的なものですから、その正誤に普遍的でないものがあれば、これを停止する理由があっても、停止しない積極的理由が思いつきません。

 

死刑は、善悪・正誤を決定する権力を持ちながらも実体のない何かに、存在する権利を否定されること、と言い換えてもよいでしょうか。

 

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チャンとスクマランの弁護士、ジュリアン・マクマホンはヘロイン所持の罪でシンガポールで死刑となったヴァン・トゥオン・グエンの弁護もしていました。グエンの母と双子の弟コアが死刑執行前の面会を終えた時のことを、マクマホンは以下のよう振り返っています。(4月5日の週で末尾にリンクを掲載した記事「その報いは死」より)

 

耳を刺すような、喉から絞り出された悲嘆の叫び、マクマホンが今まで聞いたこともない、ぞっとする動物的な音が、廊下を滑り降りてきた。グエン夫人はラスリーの、コアはマクマホンの腕の中に倒れ込んだ。母と弟は15分間、かける言葉もない程に泣き続けた。「単純な確信をもって分かったことは、死刑が絶対的に間違っているということだ。彼らが受けなければいけなかった苦しみにおいて間違っている。あの最後の無意味で無益な別れにおいて。」

 

 

家族にとっては、たとえ犯罪者であってもその死は辛いものです。それでも殺人者の家族であれば、同時に自分の家族が他人に与えた苦しみの大きさを思い知らされるかもしれません。しかし薬物密輸はどうでしょう。自国であれば懲役刑で済んでいた犯罪のせいで、正義によって無抵抗な状態で確実に命を奪われなければならない。知的で健康で才能あふれる青年が、心臓を撃ち抜かれ、その穴から血を流して、死ななければいけない。家族にとっては到底受け入れられるものではありません。

 

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刑法のような問題は、感情ではなく理性で論じるべきと4月12日に週に自分で書いておいて、矛盾するようですが、以下にチャンとスクマランの家族の写真を転載します。

普遍的な正誤があるならば、それは人間が直感的に捉えるものだと信じるからです。そのような「単純な確信」を後から理屈で支えていけば、それが出来れば、その直感は正しかったということでしょう。

 

                                  

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チャンは執行の前日に、拘置所で結婚した。

 

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初めて、そして最後に会った甥を抱くチャン

 

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チャンの両親。幼少時代のチャンの写真を手に。

 

 

 

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最後の面会の後で記者に囲まれ恩赦を請う、スクマランの弟と妹

 

 

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スクマラン、弟妹とともに。88年の日付が見える。

 

 

 

4月5日の週で末尾にリンクを掲載した記事「その報いは死」ジョージ・オーウェルの「絞首刑」の一節が引用されていました。(独り言ですので孫引きします)

 

おかしなことだが、意識のある健康な1人の人間を破壊するということの意味を、その瞬間まで、実感したことがなかった。水たまりを避けようとして、一歩横に踏み出した囚人を見たそのとき、私は満ち溢れる生命が短く断ち切られることの、言葉にできない不当性を、理解を超えた何かを、見た...

 

彼も我々も、この同じ世界を見て、聞いて、感じて、理解して、共に歩く一つの集団であった;そしてたった二分の間に、突然ぷっつりと、我々の1人が居なくなる ――意識がひとつ少なくなる。世界がひとつ無くなる。

 

インドネシアでは銃殺刑の際、死刑囚は目隠しの有無を選ぶことが出来ますが、チャンもスクマランも、目隠し無しを選んだそうです。

 

彼らが最期に見た世界はどのように消えていったのでしょうか。最期にどのような感情を抱えていたのでしょうか。ここではチャンとスクマランに注目しましたが、同時に執行された他の6名もそれぞれの物語を抱えています。分裂症で、執行の直前まで処刑されることを理解出来なかったといわれるブラジル人のロドリーゴ・グラルテ、最後の面会にきた子供たちをおんぶしていたというナイジェリア人のシルベスター・オビクウェ・ンヲリセ、それぞれの世界が、実体のない何かの強制的な力によって、一つ一つ消されたのです。

 

執行前最後の面会を終えたチャンの兄の会見を引用し終わりにします。

 

私が今日、目にしたものは、今後いかなる家族も受けるべきではない苦しみである。拘置所の中で九つの家族が、愛する人に別れを告げた。子供たち、母親たち、いとこたち、兄弟姉妹たちが、それきり最後の別れを告げ、その場所を離れること、これは拷問である。