時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

死刑廃止論支持の法務大臣たち/死刑に関する世論調査の妥当性

 

 

先週は、死刑と言う大きなテーマに足を踏み入れてしまい、なんだか纏まらないうちに一週間が経ってしまいました。今週は少し立ち止まって、死刑にまつわるテーマにもう一歩踏み込んでみたいと思います。注目の時事はお休みします。私がはまった深みは以下の2点です。

 

深み1「法務大臣という職務と私人としての思想」

先週のテーマを調べている中で、死刑廃止へと繋がりうる流れを作ったと取り上げられていた千葉景子氏について興味を持ったので、彼女について、また他の死刑廃止論者の法務大臣について、もう少し詳しく調べてみたいと思います。

 

深み2「死刑存廃論の経年変化」

先週もちらりと書きましたが、年々増え続ける存置論者と、減り続ける廃止論者の流れは、世界的な動きとは真逆の傾向を示しています。この原因については、一週間経っても見当もつきませんので保留にして、今週は、この世論調査の、並びに、その有効性を疑問視する日本弁護士連盟の意見書の、妥当性について考察したいと思います。

 

 

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2010年頃は修士論文などを書いていて、日本のニュースにとても疎くなっていた時期で、恥ずかしながら千葉氏については、今回初めて名前を知りました。刑場公開については辛うじて耳にしていたのですが、これまで非公開だったのか、というぐらいで、誰かの尽力の上で実現した事だとは考えが及びませんでした。

インターネットで千葉氏について検索してみると、検索候補には極左反日などと出てきて、いわゆる悪口のような書き込みが目立ちます。これは別の政策から生まれた批判者が多いように思いますが、死刑に関わる問題でも、死刑存置論者・廃止論者双方からの批判が検索結果に並びます。

一連の出来事や論争を全く素通りしていた無知な私ですが、彼女の大臣就任以前の発言から執行立ち会いに至るまでを調べていると、むしろ筋が通っているのではないかと思いました。死刑執行の決裁をしたところで、個人として死刑廃止論者であり続けている事は、その言動を見れば明らかです。

 

ちょうど今週、朝日新聞で、個人の信条と職責の矛盾についての記事が出ていました。

http://globe.asahi.com/feature/101018/03_3.html

アメリカの、ある公選制の検事、クレッグ・ワトキンス氏を取り上げており、日本の法務大臣とは立場や役割が異なりますが、抱える矛盾は同じです。ワトキンス氏は、職務は法に従い履行していく一方で、自分の所轄内での過去の案件を精査し直すことで、15名の死刑囚を釈放したそうです。信条に反する職務も、信条に従う活動も、法に従って行うというあり方です。

 

ワトキンス氏のこういった態度は、後藤田正晴氏を彷彿とさせます。3年4ヶ月の実質的モラトリアムを自身の代で終了させた後藤田氏ですが、彼の言動も法の定めるところに従うという点において一貫性があります。

15名の釈放に繋がった調査のやり直しは、刑場の公開や勉強会の設置、取り調べの可視化法案などを実現させた千葉景子氏に共通します。法に従い職務は遂行するが、法の範囲で出来ることからしていくという方法です。

 

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〈1〉

 

死刑廃止論法務大臣が個人的な信念を貫けば、職務と私人としての立場を混同していると言われ、私人としての考えを停止し、規定の職務を果たしても、矛盾や変節などと批判される。それでは廃止論者は法務大臣の打診を辞退するべきだ、という意見も見られるが、それでは死刑存置論者ばかりが法務大臣につくべきなのだろうか。制度と私人としての思想が合致していても、その個人的思想が職務に持ち込まれていることには変わりはないのではないだろうか。(その極端な例としては鳩山元法務大臣が挙げられる。)国民の一部が廃止を望んでいるなら、時には廃止論者が法務大臣の職に着く事が妥当なのではないか。

こういった問いに触れる為、以下では特に三つの言説に注目した。まずは就任会見で決裁不履行を表明し(てしまっ)た杉浦正健氏の発言、そして時間を遡って後藤田正晴氏の見解表明、最後に千葉景子氏の執行命令について、それぞれ考えてみたい。

 

まず最初に法務大臣の死刑にまつわる権限について確認しておく。

以下が刑事訴訟法第475条に規定されている、法務大臣の権限である。

 

第四百七十五条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。

○2 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

 

※諸刑罰の中で、その執行に法務大臣の決裁を必要とするのは死刑のみである。

 

宗教的な理由などで執行決裁の不履行を宣言した法務大臣は過去にもいるが、近年では杉浦正健氏の発言が論議を呼んだ。彼は就任記者会見においてサインをしないと明言、対する、なぜサインをしないのかという問いに「それは、私の心の問題というか、宗教の問題というか、宗教観というか、哲学の問題です。」と回答する。翌日それは個人の心情を吐露したものであり、職務の執行について述べたものではないと訂正した。

この発言が批判されるときに指摘される問題点は、私人としての信条を大臣としての職務不履行に持ち込んでいるという点である。一方そういった批判に対する反論も、その上に成り立っており、大臣の法的義務を疑問視する方法をとる。しかし私の考えでは、この発言の問題は、自身の信条を宗教の問題としたところにある。彼の思想、倫理観がたとえ宗教によるものであったとしても、宗教の話しを持ち込むべきではなかった。彼にとっては宗教の問題は哲学の問題と直結しているかもしれないが、これでは無宗教や他宗教の人からの理解を得づらい。信仰というのは理性的判断を超えたものを含むことが可能であり、法的・行政上の判断を扱う場において相応しくない。他者の宗教や思想を選ばずに、相手に論理的に説明可能な根拠があれば、それが私人としての思想であろうとも、職務不履行の根拠として提示できるはずだ。これは「心の問題」としたところ問題でもある。責務を逃れるのであれば感情ではなく理性の判断であるべきであり、信仰ではなく信念によるものであるべきだった。

これはモラトリアム期に法務大臣を務めた佐藤恵氏についても言えることで、「万物すべて命がある。皆、生きる権利がある。一体、それを断ち切る権利というものが人間に与えられているのか。生きる喜びを与えるのが宗教であって、人殺しをするのが宗教ではない」という発言があるが、法制度の執行を問題にする時、後半が不要である。国家の制度や公務員の職務についての問題であるのだから、文中の「宗教」を「人間社会」などに置き換えた方が、より多くの人の共感を得られたのではないだろうか。

 

先に少し触れた後藤田氏は、執行決裁の義務を負うべきという考えで、こういった信条によって刑の執行を命じない法務大臣を批判する。以降この言説は、存廃双方において多用されている。

後藤田氏の発言の要点は

「裁判官が厳密な調査の上に判決しているのに、法相が個人的な思想信条、宗教観で執行しないなら大臣に就任するのが間違いであり、職を辞するのが当然だ。裁判官の判決を行政が執行しないということでは法秩序、国家の基本をゆるがせるのではないか」

というものである。

 

これは、衆議院調査局の死刑制度に関する資料を参照したものだが、この中に国会における死刑制度を巡る議論がまとめられている。この資料だけでは各法務大臣がどのような思想を持っていたのかは判断しかねるが、立場上、現時点では存在する制度への理解を求めるものになっている。質問自体もそれぞれ少しずつ異なるので、内容の評価は避けるが、ここでの国民世論の引用目的について、気に留まったことを一つ述べたい。これら議論において、殆どの歴代法務大臣が世論の廃止反対を取り上げている。これを厳密に分析すると、世論の利用のされ方は3種類に分けることが出来る。使用頻度の多い順に以下に示す。

 

①国民世論を考慮すると死刑は存置されるべき 

②国民世論を考慮しながら検討すべき問題である

③現時点での廃止は国民世論の理解を得られない

 

①と③は大変似通っているが、①は「よって変える必要はない」という、③は「よって変えることが出来ない」というニュアンスをそれぞれ含んでいる。つまり国民の意思は検討すべきかどうかの基準であり、決定の基準ではないという点においては②と③が共通している。①の場合、不検討は現行制度維持に直接繋がる。

後藤田氏の発言は③に該当し、世論は存廃の基準ではなく、存廃の議論をしなければいけないかどうかの基準に過ぎないという考えがその底にあるのではないか。

上に引用した後藤田氏の答弁は、決裁の必要については法制度のみを根拠として挙げており、後半の世論についての発言は以下に繋がる:「制度論としては考えなければいけない大きな課題であることは事実だけれども、(世論を考慮すると)今これを取り上げて死刑制度を廃止するという時期には私は日本はまだ来ていないのではないかなと(考える)」これは③にあたり、彼が混同させてはならないとする個人的な信条が、彼自身においては死刑廃止に向かっていたのではないかと思わせさえする。

 

法務大臣たちの信条がどうであれ、結局は刑法475条が彼らから自主的な判断の権利を奪っている。法務大臣に指名される人たちには、法の専門家も多いが、自身の決裁不履行に法的根拠を挙げた者はいない。廃止派が法的根拠を挙げた例としては、第二項の形骸化と刑事法制に関する企画立案を指摘するものがある。この意見も一方で第二項は訓示規定に過ぎないから義務ではないとしながら、他方では任務の一つである、刑事法制を企画立案すること、さらには企画検討中は執行を停止することまでを義務としており、論理的一貫性に欠ける。後者については法務省の任務であり、それこそ大臣一個人の意向で決まることではない。

 

これは2010年7月28日の執行抗議集会での弁護士・安田好弘氏の発言であり、千葉氏決裁による執行、またその記者会見での「執行は義務である」とする千葉氏の発言に対しての批判である。多方面から批判の多い千葉氏だが、これほど真剣に死刑問題と向き合った法務大臣は他に居るだろうか。廃止論を貫くというあり方も一つの道であったとは、本人も発言していることであるが、「それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起こって行く、というのも感じ」ることを、決裁に及んだことの説明に挙げている。個々人の生死に関わる問題を存廃対立の戦略として捉えることは不調和かもしれないが、全体的な廃止の流れで捉えれば有効な論拠である。廃止論を公言する法務大臣が、それを「貫いた」例は過去に見られる訳だが、それが全体的な流れの中で何をもたらしたかというと、在任期間に限る死刑囚の一時的な延命に過ぎない。執行派の法務大臣に交替することで執行は再開されるだけでなく、全体としては法務大臣としての義務を果たすべきという論調が強まるという逆の結果を呼んでいる。杉浦氏後任の2名に関しては突如二桁の執行をしており、前任期間への反動とさえ思わせる。こういった足踏み状態を千葉氏は「その時の法相がやった、やらない、という問題になってしまっている」と表現する。

その流れを変える目的で信条に反して法に従った千葉氏の決断は、死刑存置法務大臣の正当化された私人としての思想の持ち込みに目を向けさせるものですらある。

 

そして、その執行に立ち会う。

 

廃止論者の千葉氏が決裁を行ったということに関しての批判の多さに比べて、この立ち会いについて、立ち会うことの意味については、あまり取り上げられていないように思う。我々現代人にとって絞首刑の立ち会いというのは大変に恐ろしいことであり、それでもそれを決断した千葉氏の、決裁自体の苦しさを思わせるものである。千葉氏が立ち会ったことによって、その他の法務大臣が誰1人として立ち会ったことがないという事実が広く伝えられたことも一つの効果だが、そのことの意味をもう一度考えてみたい。無人機による攻撃や、都市生活者の肉食などにもいえることだが、我々現代人が死に関わる何かを決断するときに、死はあまりにも遠いところにある。既に複数人の手を渡ってきた書類の決定事項にサインをすることは簡単であるが、それが何を意味するかを意識的に行ったという証が、立ち会うということである。この対極として、また鳩山氏の言動が思い起こされるが、千葉氏ほど決裁することの意味と真正面から向き合った法務大臣は他にいない。

 

法務大臣とはいえ、個人の思想を反映させる事は出来ない。既存の刑法を変えることを許すのは大多数の民意しかない。法務大臣たちが繰り返し強調したのは、国民世論が廃止を希望していないという点だ。その国民世論を変える為に、まずは議論の活発化を目指したのが、千葉氏最大の功績であると言えるだろう。その根底には、熟考すれば、きっと死刑廃止論に辿り着く、という人間性への信頼がある。

我々はこの期待に応えてきただろうか。千葉氏退官から5年近くが経とうとしているが、国民の間で議論は活発になっただろうか。廃止論が小さすぎて議論の必要が減ってきているのではないだろうか。死刑制度に関する世論調査の回収率が年々下がっているというのは、若い世代の無関心を示していないだろうか。

 

法治国家である以上、法務大臣1人の裁量で、確定した刑の執行を停止させるべきではないというのが、大臣の決裁を義務と見る場合の論拠になっている。しかしここで、その法について、もう一度基本的な所に、権力分立の意義に、立ち返ってみよう。裁判官が慎重に慎重を重ねて確定した刑だというが、それでは、なぜ法務大臣のサインを必要とするのか。

ここに475条を制定した先人の知恵がないだろうか。時代の変化により死刑が廃止されるべき時に、行政が止めることが出来る。検察の不正が疑われるときに、裁判員が理性より感情を優先したときに、被告が精神上の理由で再審請求できないときに、世界の倫理観が日本に死刑の停止を求めるときに、法務大臣は執行を停止する権限を与えられているのだ。

 

 

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次に、死刑制度に関する内閣府世論調査についてですが、やはり気になるのが経年変化です。戦争経験者が回答者であったはずの1956年調査に比べても、廃止論者は減り、存置論者は増加しています。240万人とも300万人以上ともいわれる多数の国民が死亡した戦争を経験した人たちの間で、現代よりも死刑廃止の傾向が強かったのです。あるいは殺すことを、殺されることを、個人の生死を左右する国家権力の強大さを、知っていた世代だからこその回答結果なのでしょうか。

 

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〈2〉

 

〈世論調査の有効性について、日本弁護士連盟の意見書〉

1.質問内容が誘導的である

2.追加項目として終身刑の導入を条件とした場合の調査すべきである。

3.回収率の低さ・偏り

4.マイクロデータの公開

 

〈各項目に対する私見〉

3.改善が望ましいが経年変化から単純推測すると、回収率の低い20代男性の回答は死刑制度支持の割合を強める可能性がある。

4.経年変化の原因解析に欠かせない情報である。開示が望ましい。

1.死刑制度の存廃を問う質問(以下、第一質問と呼ぶ)において、廃止に対してはどのような場合でもという強い表現を、存置にたいしては場合によってはやむを得ないという柔らかい表現を付け足す事によって、回答者が存置を選び易くしているという批判だが、この点に関しては、死刑判決が極端に悪質で重大な犯罪に対して稀に下されるものであることを考慮すれば適当である。質問の設定変更があった1994年に顕著な数値の変更はなく、むしろ緩やかな線を描いて一定の変化を示している。よって、偶然1994年に世論に変化があったと考えない限り、質問内容の変更が回答者に与えた影響は見られない。 

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※世論調査の結果数値を元に作成、89年以前はデータの採取年が不定期(以下2点の図も同様)

 

この理解しがたい傾向を、調査のあり方に疑うのは全く共感できるが、単純に存置論者が増えていると考えざるを得ない。むしろ、なぜこういった傾向を示しているのか理解できない事が問題であり、取り組まなければいけない課題である。

弁護士連盟の資料にあるように「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか、反対ですか」という質問に40年前は5人に1人が賛成と答えていたのである。

 

2.死刑存置論者の一部は、無期懲役刑が場合によっては将来的な釈放の可能性を含むことを考慮した上で、現時点での廃止に反対しているため、下位質問として例えば終身刑の導入などを訊ねることを提案するものである。

終身刑導入の可能性に関しては、存置論者への下位質問「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」の項目が内包しているように思われる。この質問こそ、曖昧模糊としているが、状況が変わればとは何のことであろうか。凶悪犯罪の可能性が一切無くなるということは非現実的である。現在死刑存置を希望している人が将来的に廃止してもよい状況の変化として考えうるものは終身刑の導入に尽きないだろうか。ちなみにこの追加質問は、質問設定変更の1994年に判然とした変化が見られ、弁護士連盟が第一質問の内容の誘導性を裏付ける数値として挙げているものである。 

ここで、参考に、条件付きで廃止をしてもよいとするグループを、「場合によっては廃止もやむを得ない」とし、廃止論者の方へ移動させ、将来も存続とするグループのみを「どんな場合でも存続するべきだ」とする存置論者へと、質問設定を逆誘導的に入れ替えた場合の回答率を図に示してみる。

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上に述べたように、第一質問に着いては、94年の影響が目立たない。しかしこの下位項目を考慮すると94年の変化は一目瞭然である。これを説明するには、もう一つの変更事項、この下位項目自体に「状況が変われば」が追加されたことが、変化の影響と考えることが自然である。89年までの言い回しは、「将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか。それともだんだん死刑を少なくしていって、いずれは廃止してもよいと思いますか。」となっており、段階的削減を経た廃止の是非を問うている。条件のない漸次廃止を示せば、漸次削減は廃止という目的の為と考えるのが自然で、これは第一質問で廃止反対を選んだ人への問いとしては不適切である。Bを選べば自己矛盾に陥る質問を多数の人がAと答えるのは当然である。

次に94年以降の質問内容だが、現在存置を希望しているが将来的には廃止してもよいとするなら、状況の変化は前提とされるはずだ。そしてその念頭にあるものとして終身刑の導入が推測される。そして、条件付きの廃止をよしとするならば、第一質問では「一概に言えない」を選ぶべきだ。これだけの割合の人がは死刑存置を望んだ上で、条件付きの廃止を選んでいる。これは先述の、第一質問の内容変化が結果に影響を及ばさなかったと仮定した場合の演繹だが、状況の変化を条件とせずに将来的な廃止を許容しつつ、即時廃止は望まない層が存在するといえる。

 

この94年の数値変化を弁護士連盟の意見書は、第一質問の曖昧な表現に妥協を見いだしたグループと分析しているが、私は第一質問で「一概に言えない」を選ばなかったことを重視し、むしろ問題への積極的な参与を望まないグループとしたい。見逃してはならない語法上の違いが2つの質問にはある。第一質問が廃止するべきであったのに対し、ここでは廃止してもよいかを訊ねている。意見書ではこれを「明確な意志」の幅と表現していた。同じことを言い換えるに過ぎないのだが、敢えて強調したい。これは「自主性」の問題である。既に与えられた決定に追従するか、能動的に何かを変えるかの違いである。

そう考えると「状況が変わ」ることに、法的変化ではなく他動的な変化も含まれてくるように思われる。(国民世論の大多数が望むなら)廃止もやむを得ない。(日本以外の全世界が死刑を廃止したら)廃止もやむを得ない。そういう心理状態の現れではないだろうか。もしこれが矛盾回答者の念頭にあった「状況」ならば、日本が死刑存置国として世界的に孤立し、他国に追従するのを待つ方が速いのかもしれない。

以上見てきたように、現在の調査の質問設定では、中間層はその部分毎に存廃双方に組み入れられる可能性を持っている。そこで次に、どんな場合でも廃止すべきとする人の割合と、どんな場合でも存置すべきとする人の比較を以下に示す。 

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これは第2の図を見ても目につくことをより明確に示すだけなのだが、大切な点だと思うので繰り返さなければならない。それでも、廃止論者が圧倒的に少ないのだ。

 

最後に読売新聞が行った調査を引用し、上記の様々な推論の妥当性を検証したい。これが弁護士連盟の提案する質問形式で回答選択を求めているからだ。 

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衆議院調査局法務調査室 死刑制度に関する資料(2008年)、17ページより抜粋

 

この読売新聞の調査から分かることは、現行の内閣府の世論調査の第一質問経の回答において、存置支持の割合は積極的存置論と消極的存置論を合わせた割合に近く、廃止賛成の割合は積極的廃止のみの数値に近い。つまり、意見書の指摘する誘導性は消極的廃止論者を排除しているという限りにおいて正しい。

 

以上、弁護士連盟の意見書を通じて考察される、世論調査に関する事実は以下の2点だ。

①質問設定の変更によって85%の数字は変えることが出来る。

②廃止論者はいずれにせよ少数派である。

 

既存の法律を変える程の影響力を持つのは、どんな場合にも廃止すべきだという、自主的で明確な意志が多数派を形成するようになってからかもしれない。冤罪も表面化し、刑場・死刑囚に関する情報の公開も進み、裁判員制度による死刑も下され、それでも減って行く廃止論者が、多数派を形成する日は一体いつになるであろうか。

 

冒頭で私は、死刑が例外的に下される刑罰であることを理由に、第一質問の設定を問題視しなかった。これは、既存の制度を変更する際の決意の必要からだ。なぜなら、「どちらかといえば」という曖昧な態度は、死刑という重大な問題に不相応であるからだ。「どちらかといえば」ではなくて「条件次第では」とするべきではないか。どちらかを選ばなければいけないなら、どちらかといってAを選ぶなら、一括して「一概にはいえない」を選ばせればよい。こういった中間層は、多数派の意見に追随し易く、たとえ終身刑が導入されようとも、被害者感情を考慮して極刑が望まれる論理は現在と同様なはずである。よって「どんな場合でも廃止すべき」という確信が多数を占めないうちは、終身刑の導入も段階的死刑廃止に繋がらないと私は考える。

 

 

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〈感想〉

 

フランスにおける死刑廃止法案審議の議事録が邦訳されたもの。

長いですが、戯曲のような読み応えがありました。

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-250.html

 

このバダンテール氏は来日の際の講演で「死刑を廃止したほとんどすべての民主主義国で、死刑廃止の時点で、世論は死刑の廃止に好意的ではありませんでした」述べたそうです。

これは、政治的権力者が正しい決断をすれば、民意はついてくると言う考え方です。

 

死刑が違憲であるという上告に対する、最高裁判所の合憲判断において、一部裁判官より以下の意見が補足されたそうです。

憲法は、その制定当時における国民感情を反映して、右のような規定を設けたにとどまり、死刑を永久に是認したものとは考えられない。ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は、国民感情によって定まる問題である。しかして、国民感情は、時代とともに変遷することを免れないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることもありうることである」

内容は色々なところで言われているものですが、国民感情という言葉遣いにはっとさせられました。世論世論といわれているものは、感情にむしろ近いのではないでしょうか。議論や研究を経ずに選ばれる結論は、正誤ではなく好き嫌いで判断されます。そして持論を変えさせることには説得を必要としますが、感情は伝染します。勉強会よりも、冤罪死刑囚の悲しいテレビドラマでも流行ったりした方が、世論への影響は大きいのかもしれません。

 

死刑廃止の世界的な傾向についても、今後どのような展開を見せるか分かりません。イギリスの世論調査では廃止から50年経った現在も、一定数の死刑制度支持者が存在する実態が浮かび上がってきました。ドイツの法学部新入生へのアンケートでも、前回調査で死刑制度復活支持者が増加しています。こういった、死刑廃止国における死刑制度支持者の動向やその原因についても、また回を改めて調べてみたいと思います。

 

 

〈1〉関連資料

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO131.html

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO093.html

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/houmu_200806_shikeiseido.pdf/$File/houmu_200806_shikeiseido.pdf

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/2010shikkoh.htm

http://homepage3.nifty.com/tetuh/105.html

http://homepage3.nifty.com/tetuh/104.html

http://homepage3.nifty.com/tetuh/120.html

http://www.geocities.jp/aphros67/050534.htm

http://www.geocities.jp/aphros67/050500.htm

http://www.geocities.jp/aphros67/050500.htm

 

 

〈2〉関連資料

http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-houseido/2-2.html

http://www.moj.go.jp/content/001128770.pdf

http://www.morino-ohisama.jp/blog/2014/05/2044.html

http://www.welt.de/politik/deutschland/article134799279/Warum-jetzt-viele-Deutsche-die-Todesstrafe-fordern.html

http://www.theguardian.com/world/2014/aug/12/less-half-britons-support-reintroduction-death-penalty-survey

https://yougov.co.uk/news/2014/08/13/capital-punishment-50-years-favoured/