時事メガネ

気になった時事問題を少し追ってみる

ロヒンギャ問題代表会合に見るアジアxヨーロッパ思考様式の壁

 

 

先週取り上げたアマンダン海の難民について、29日にはタイのバンコクで代表会談がありました。ロヒンギャという言葉が使用されれば参加しないと表明していたミャンマーを配慮しながらの、ミャンマーの代表も含めた17カ国での会合となりました。

 

難民は実際、ロヒンギャだけでなくバングラディッシュ人も多く含まれていますが、難民増加と同じく重要視されているのがロヒンギャの人権についてですから、ドイツでは「ロヒンギャ首脳会合」と略式表現しているメディアも多くあります。

 

呼び方を変えることによって、会合で検討されるべき問題が変わる訳ではありませんから、それでも呼称に拘るミャンマーの条件提示は、むしろロヒンギャの権利蹂躙を重ねて世界に宣伝する形となりました。そのような経緯があると「インド洋に於ける不正規難民についての特別会合」という長い名称の会議看板の前での集合写真も白々しく見えてしまうものです。

 

しかし、言葉遣いに拘るという態度が国際的な批判を高めるであろうことはミャンマー政府も承知しているでしょうから、それ以上に大きな爆弾を国内に抱えていることが伺えます。そう考えると、要求に迎合し用語を避けたアジア諸国代表が、むしろ頼もしくもあります。

 

唯一「ロヒンギャ」を連呼したのが国連難民高等弁務官事務所のフォルカー・トュルク氏でありましたが、アジア諸国代表の座敷での接待に正義という土足を履いて駆けつけてきたような感があります。同じ文章を用語を変えて表現しても、同じ内容を伝えることが出来ますし、変えた用語がロヒンギャを示していることも伝わります。すると、彼も同じく呼称に拘っている訳で、これは、ロヒンギャの語をタブー視するミャンマーへの抗議ということになります。この正しいと信じることに対する真剣さというのは、やはり西欧人において顕著です。

 

これは日常の会話レベルに始まることですが、西欧文化圏の人々は正誤の判断が絶対的です。例えば、日本人と話していると、意見の相違は相違のままに据え置き、話題を変えることもありますが、ドイツ人は正しいものは誰にとっても正しいと、説き伏せようとすることが多くあります。これは、スーチー氏を批判する態度に対しても言えることですが、正しいと信じるものを通す、本当に正しいものは人々の理解を得られるという考えです。

 

しかしながら、ロヒンギャの問題に一番真剣に向き合っているのも、西欧諸国です。西欧諸国の強い反発がなければ、周辺国の対応も今の状態に至らなかったと思います。そう考えるとロヒンギャ問題への対応を主導しているのは西欧的思考ですから、それならば西欧のやり方に従うべきという気もしてきます。

 

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もうひとつ注目すべきは、ドイツの新聞では会合が一定の成果を生み出したと評価しているものもあるのに対し、日本の新聞では成果は無かったと評されていることです。

「一定の成果」として挙げられている事項に「人身売買業者の危険を警告する宣伝キャンペーンの実施する」「合法的な移民の方法を拡大する」「難民出身国の生活条件と人権状況を改善する」などがあります。

一方で日本では「協議平行線」(日経)、「具体的な成果を得られなかったことで、各国などの溝の深さを見せつけた」(産経)などと表現されています。

 

ヨーロッパ人が成果と認める事柄が、アジア人の感覚では具体性に欠けるということです。これは恐らく、今後これらの事項がどのように実行に移されて行くのかという課程で露見してくる違いではないでしょうか。ヨーロッパで「合法的な移民の方法を拡大する」と合意したならば、それは当然実行されて行く。一方でアジアでは、誰が、いつ、と決まっていない以上、立ち消えになる可能性をはらんでいるのではないでしょうか。

 

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マレーシアとインドネシアの緊急受け入れは、1年の期限がついています。日本にも館林市を中心に小規模のコミュニティーもあるようですから、一年もあればある程度の人数を受け入れる準備もできるかと思いますが、どうでしょう。

 

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参考記事

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/fluechtling-rohingya-myanmar-malaysia

http://www.taz.de/!5201524/

http://www.sankei.com/world/news/150529/wor1505290050-n1.html 

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM29H6W_Z20C15A5FF2000/

 

難民船のたらい回し(難民船問題・アジア篇)

 

 

4月に地中海難民を取り上げましたが、今週はアンダマン海難民です。

 

週刊を目指していた時事メガネですが、うっかり二週間も空けてしまいました。ここしばらくは時間の取れないことが続きそうなので、記事の長さを抑え、一週間単位に拘らないことにします。

 

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似たような出来事があると、対応の違いから、それぞれの国の本質が見えてくるものです。ヨーロッパ内でも難民の受け入れ態度は様々ですが、ヨーロッパと東南アジアの対応の差はあまりに歴然としています。

難民を受け入れるかどうかは各国が決めることですが、生命の危険にある状態の人々を保護しないというのは、単純に犯罪ではないでしょうか。

 

 

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〈概要〉

 

インドネシア、及びマレーシアに救助された、または自力で海岸まで泳ぎついた難民が、10日からの数日間で約2000人に及ぶ。

12日、インドネシアに到着した難民船に、インドネシア海軍は水と食料を補給し、ボートを領海外の遠洋へ曳航。数百人が乗っていたボートはインドネシアを目指していなかった、と海軍はこの行為を正当化する。このような、軽食と水を与え公海へ押し戻す作業は、タイやマレーシアも行っている。14日も800人を乗せた難民船を公海に曳航したマレーシアは、これ以上の難民は歓迎されていないことを示す為の正しい態度である、と話す。

15日、ミャンマーからマレーシアを目指し航海していた難民船が沈没する。漁船に救助された7~800名の難民がインドネシアに送り届けられた。この船は既にマレーシア海軍により発見されていたものの、やはり燃料と水、食料を支給され領海から追い出されていた。そうして付近海上を漂流すること2ヶ月。海上で孤立した船の上で、人々は水と食料を奪い合い、殺し合いをしていた、と生存者は報告する。実証は難しいものの、別々に得られた3証言には、一貫性があり、殺し合いによる死者は100人程とされる。

別の船でもやはり水と食料を巡り、斧や刃物、鉄パイプを使った抗争で、多数の死者が出たと証言されている。ここではバングラデシュ人対ロヒンギャ人という構図をとっていたようで、事件の発端に関しては証言者のバックグラウンド毎に主張が異なる。

何ヶ月も餓えと乾きと不安を過ごした人々が正常な判断を出来なくなるであろうことや、水の獲得が自己の生死に関わることを考えると、この残虐な事件に加わった者にすら同情の余地が生まれる。それにしても、民族対立から逃げてきた人がこのような状況に於いてすら、属する民族毎で対立するというのが、人間の本質なのだろうか。

 

国際移住機関は8000人程が海上に待機していると推測。国連は、救助は国際法上の義務であると声明を出す。アジア諸国では初めて、フィリピン政府が千人単位での受け入れを表明した。

インドネシアは漁師に難民船の救助に向かうことを禁じた。(偶然遭遇した場合は助けても良い)しかし政府の命令に反して漁船は救助を継続、20日にも新たに370人が漁船によって救助される。この船は4ヶ月間、海上を漂流していたとのこと、難民たちは「脱水症状を起こし衰弱が激しく、餓死寸前である」とアチェ州の救助隊長は証言する。

20日、マレーシア、インドネシア、タイの外相がクアラルンプールで会合。ミャンマーは欠席した。29日にもタイで首脳会合が開かれるが、ミャンマーは「ロヒンギャ」の語が使われれば欠席する、と表明している。外相会議を経てインドネシアとマレーシアは、一時的な救命の為の上陸を許可した。21日には早速、マレーシア海軍と海岸警備隊が救助活動を始めている。

 

 

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〈背景〉

 

1.ミャンマー概観

 

人口5200万人(2010年)約70%がビルマ族、30%は135の少数民族によって成っている。135のグループ分けには、市民権を持たないロヒンギャは含まれない。

宗教構成は、仏教89%、イスラム教4%とキリスト教が各4%となっている。

長年の軍事政権に替わり、2010年に総選挙で選ばれたテイン・セイン政権が成立した。ロヒンギャの問題がその一端を示すように、民主化の道のりはまだ長いが、それでも改革は進んでいると言える。歴史的には高い教育水準を持っていたが、軍事政権期に低下、教育と健康に当てられている予算は、GDPのたった3%である。

 

2.ロヒンギャ

 

ロヒンギャは、ミャンマーラカイン州からバングラデシュ国境地帯に居住する人々で、イスラム教徒が多く、ロヒンギャ語を話す。ミャンマーで何世代にも渡って農業に携わる人が多いが、ミャンマー政府はバングラデシュからの不法滞在労働者だとして戸籍を与えない。ロヒンギャが、アラカン(現ラカイン州)土着の民とする学説と、イギリス統治時代に往来が自由であったベンガル地方から来た商人であったとする学説があるが、ロヒンギャ自身は前者を主張する。いずれにせよ、当時のパキスタン・ブルマ国境の制定が49年、現在の国境で合意したのは66年のことであるから、ロヒンギャミャンマー国籍を得られない理由にはならない。また、国籍法制定が82年であること、70年代後半から政府による組織的迫害から逃れる為に、数十万規模のロヒンギャバングラデシュに避難・越境していることも、考慮されるべき事実である。

ミャンマー国内では80万人程いると考えられているロヒンギャは、市民権がないことで教育や医療、財産など、様々な面での権利を奪われている。14万人のロヒンギャが州都シットウェのはずれにある難民キャンプに暮らす。サウジアラビアバングラデシュに逃れる人々は、それぞれ数十万人規模に達している。

 

3.2012年ラカイン州暴動

 

仏教徒との軋轢が大規模な暴動に発展、6月には100名以上の死者、10月には80名の死者と130名の負傷者を出し、4500世帯の家屋が破壊された。2012年だけで仏教徒イスラム教徒の双方を合わせて280人が死亡しており、14万人のイスラム教徒が、難民キャンプへ避難する事態となった。ミャンマーではベンガル人と見做されるロヒンギャだが、避難先のバングラデシュにも受け入れを拒まれる。6月の暴動ではロヒンギャが暴力の対象であったが、10月の暴動ではイスラム教徒全体へと、その範囲を拡げた。仏教徒イスラム教徒の双方が、暴動のきっかけは相手にあるとしているが、双方に共通している証言は、政府軍は止めることが出来たのに止めなかったということだ。89:4の宗教対立を煽るとき、権力の意図する所は歴然としている。

ラカイン州での対立が沈静化された後も、他州でも仏教徒イスラム教徒の間で、小規模の暴動やヘイトクライムが継続的に発生し続けている。インドネシアの難民キャンプでも、ミャンマーからの仏教徒イスラム教徒の間で、殺人を伴う抗争が発生している。

 

4.タイの摘発強化

 

元々陸路でタイへ逃れる人々が多く、94年からの10年間で14万人の難民がいた。タイの入国管理局の一部が人身売買業者と協力関係にあったともいわれている。

人身売買業者は、ミャンマーで少数派のイスラム教徒に、大多数がイスラム教徒であるマレーシアへの移民の仲介を持ちかける。そうして集まった人々を、国境近くの山に監禁し、親族から身代金を得たり、一部は奴隷として売るなどしていた。そういった被害者の1人が、2500ユーロの身代金を払っても戻ってこない甥を捜すため警察に協力を求めた。この捜査でマレーシア国境地帯の山中で遺棄された大量の死体が発見された。それを受けて、タイ当局は捜査をさらに強化しており、地元権力者や数十人の警察官の逮捕者も出ている。摘発を恐れる業者が人質を持て余したことが、難民船の増加に関連していると考えられる。尚この摘発で差し押さえられた現金は500万ユーロにのぼるとのこと。仲介業者への謝礼は何千ユーロもするという話を裏付けるものになりそうだ。ちなみにミャンマーの平均年収900ユーロ(2014年)、最低賃金は月収25ユーロ以下(2015年)である。

 

 

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〈日本との関係〉

 

1.責任

 

日本は第二次世界大戦中42年から当時のビルマを占領したが、それまでの統治者であったイギリス軍は撤退の際、日本軍に抵抗させようと北アラカンイスラム教徒に武器を供給した。統治者が抜けたり変わったりすることによる権力の不均衡に、民族・宗教間の衝突が起きた。それに加え、親イギリス派とビルマ愛国主義の対立も起きた。この時期、ラカイン州の虐殺と呼ばれる事件が発生しており、ロヒンギャにより2万人のアラカン人が、またアラカン人により5千人のロヒンギャが、虐殺されたといわれる。また、日本軍からの暴力から逃れるためベンガル地方に越境したロヒンギャは2万2千人程と推測されている。侵略、及びそれに伴う撤退後の無秩序状態において、部族・宗教対立が悪化したといえるだろう。

そういった直接的な責任に加え、同じアジア太平洋地域の豊かな国であるということで、人道的責任を負っていることになる。例えばバングラデシュは、2012年のロヒンギャ難民大量発生の際に、これ以上受け入れる余裕がないとし上陸を拒否したが、自国民ですら生活に困窮しており難民として脱出しているのだから、余裕がないという言い分も現実感がある。世界有数の人口密度としても知られるが、GDPは日本の37分の1以下である。ちなみに今月の難民船問題でも、現時点で救出された難民の約60%は、バングラデシュ出身である。

 

 

2.取り組み

 

今回のロヒンギャ問題に関して、この難民を受け入れると言う声は、政府からは勿論、民間からも聞こえてこない。国際的な批判の中には、批准している難民条約の違反であるという声すら上がる、日本の極端に消極的な難民政策をもう一度振り返ってみよう。

1982年から2012年まで認定616件であり、昨年2014年は11名にすぎなかった。申請は増加しているが申請認定は増加していない。例えば、難民の大量発生しているシリアからは過去4年で僅か60名の難民申請があったが、その内、現在までに許可された申請は3名のものに過ぎない。申請が許可されるまで滞在は許されるものの、審査期間は刑務所のような施設に拘留されることになる。この拘留中に死亡したものも近年2名いるが詳細は不明。

それとは別枠でインドシナ難民を1978年から2005年までに11319名受け入れている。

このインドシナ難民受け入れ終了に代わって、2010年から第三国定住受け入れのパイロットプロジェクトを行っているが、希望者が定員割れという信じられない結果を呼んでいる。家族枠など、色々条件が多い為と言うが、それにしても信じがたいことである。

 

 

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〈感想〉

 

今回のテーマも色々と気になる問題が沢山あります。それぞれについて、まだ考えが纏まらないので、別の機会に扱いたいと思います。

 

〈結局頼りになるアメリカ〉

何かと他国の問題に乗り出してくるアメリカの態度は、色々な国に更なる問題を生み出してきたものでもあります。しかし、今回のようなケースでは、行動力の速さに感心させられます。

 

〈アウンサンスーチー〉

アウンサンスーチー氏が少数民族の問題について、積極的ではないという批判が散見されます。こういった批判は、氏の置かれている状況への想像力に欠けると思います。民意を変える力のある人材が、その力を使える立場にあることが前提なので、選挙の為に発言を控えているとすれば、そうするべきです。そこから見える問題は、大衆が少数民族問題解決に消極的である(或は積極的排除を望んでいる)ということであり、問題の根深さでです。そのような根深い問題は、急な改革をしても対立を深めるだけです。時間を掛けて解決していくべきことであり、個々の問題への態度表明を急かしてはいけないと思います。そのような態度表明が、西洋社会に聞かせるためのものなら、我々が笑顔で頷く為のものなら尚更です。彼女の人生を振り返れば、西欧社会が彼女を守れないことを良く示しています。

 

〈希望者ゼロの第三国、日本〉

試験的導入中の第三国定住制度に、希望者の定員割れ、希望者ゼロ、という不思議な現象が起きています。色々と問題は指摘されているようですが、それらのどれも希望者ゼロの理由になると考えられません。意図的に結果を操作し、受け入れる用意があるのに難民が来たがらないという印象を作ろうとしているのではないか、などと穿った見方をしてしまいます。

文化が違うから、幼稚園が遠いから、就労時間が長い、などの問題が、現地難民に伝わった為などといった意見が出されていますが、これが日本行きを希望しない理由に足りるのであれば、彼らの滞在していた難民キャンプは、援助がある程度充実していたと考えられます。より劣悪な環境から来る難民は、日本の生活に適応が出来ないという考えでしょうが、劣悪な環境を知る者なら適応への努力も多く見込めるのではないでしょうか。

子供のいる世帯に限って募集することになった経緯、定員を30人とした根拠、色々が謎です。条約難民に関してもそうですが、担当省のホームページなどで得られる情報からは、積極的に難民を受け入れて行こうと言う姿勢は全く感じられません。パイロットプロジェクトの失敗にしても、インドネシア難民でそれなりの経験も積んでいるのですから、本気を出して、そこまで失敗するはずがないのです。それでは、そもそも受け入れる気がない、と考えざるをえないでしょう。この問題に関しての世論調査も、日を改めてじっくり検証してみたいと思います。

 

〈火事の対岸、日本〉

ロヒンギャ難民について日本の新聞も少なからず扱っていましたが、やはり他人事という距離感があります。難民の定住受け入れは世論もありますから、簡単に決めれることではありませんが、一時受け入れや救助活動をすることが出来ます。イスラム教への偏見や国内の貧困も抱えるフィリピンも、素早く名乗り出ました。民意など調べている間に死者は増加します。批判を覚悟で素早く人道的決断を出来る政府は、国民にも愛されるのではないでしょうか。

 

〈命の重みの階級〉

これは様々なニュースについて度々思うことなのですが、報道される命の重みが、社会的階級によって変わってくるようです。報道ばかりを批判したいのではなく、情報を受け取る私自身の中でも感じる問題です。各出来事への、社会の反応を見れば明らかな違いなのですが、テロの爆発で死者が出れば、ボストンの方がバグダートより大きく扱われます。これは何に由来しているのでしょうか。イラクパキスタンでのテロに、ニュース視聴者も慣れてきてしまっているのでしょうか。大変な状況にある人が大変な事態に遭うということは、突然大変な事態に遭うことより、小さい問題でしょうか。それともこれは単純に人種の問題でしょうか。ボートに乗っていた370人がフランス人だった場合、水と石油を与えて公海に放置することが出来る国はあるでしょうか。フランス国籍のロヒンギャ人ではどうでしょう。豪華クルーズでの300人の方が難民船の300人よりも大事件になりますが、しかし難民船への乗船料も同じように高価です。難民船の状態を見れば事故に遭う可能性が想像できるからでしょうか。そのような船に全財産をはたいて人が乗るということの方が、大事件ではないでしょうか。世界には、普段の平和さと人種によって作られる階級が未だ存在するように感じています。死が身近にある人々の命が軽くなるかのようです。

 

 

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〈参考〉

 

http://www.faz.net/aktuell/gesellschaft/indonesische-marine-schickt-fluechtlingsboot-zurueck-auf-hohe-see-13588422.html

http://www.faz.net/aktuell/politik/ausland/asien/fluechtlingsdrama-das-leiden-der-staatenlosen-rohingyas-13589964.html

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-05/rohingya-boot-fluechtlinge-asien-malaysia

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/rohingya-myanmar-fluechtlinge

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/flucht-pazifik-boot-indonesien-malaysia-rohingya

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/fluechtlinge-indonesien-meer

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-05/indonesien-fluechtlinge-malaysia-rettung

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/malaysia-fluechtlinge-rohingyas

http://www.welt.de/politik/ausland/article140980902/Wir-werden-Bootsladungen-voller-Leichen-sehen.html

http://www.soas.ac.uk/sbbr/editions/file64388.pdf

http://www.networkmyanmar.org/images/stories/PDF17/Leider-2014.pdf

http://www.zeit.de/politik/ausland/2012-08/Rakhine-Rohingya

http://www.zeit.de/politik/ausland/2012-10/birma-rohingya-vertriebene

http://www.zeit.de/politik/ausland/2012-10/birma-unruhen-fluechtlinge

http://www.japanforunhcr.org/act/a_asia_thai_01.html

http://www.spiegel.de/politik/ausland/malaysia-und-indonesien-wollen-fluechtlinge-aufnehmen-a-1034613.html

http://www.spiegel.de/politik/ausland/fluechtlinge-offenbar-grausige-kaempfe-auf-booten-a-1034520.html

http://www.spiegel.de/politik/ausland/philippinen-bieten-tausenden-bootsfluechtlingen-hilfe-an-a-1034378.html

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/myanmar-fluechtlinge-gipfel

http://www.bbc.com/news/world-asia-18395788

http://www.deutschlandfunk.de/fluechtlinge-japans-restriktive-asylpolitik.799.de.html?dram:article_id=317458

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/nanmin/main3.html

http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201201/5.html

http://www.rohingya.org/portal/

http://www.unhcr.org/pages/49e4877d6.html

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-05/malaysia-indonesien-fluechtlinge-rettungsmission

http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/journal/documents/14_p49.pdf

チャンとスクマランの死刑について

 

 

ブログを始めて、はや6週目、1週間の記事を8~9日かけて書いている為、ズレにズレて先週分はだいぶ遅れての投稿になりました。気が付けばもう週末ですので、今週注目の時事は、少し自由に、思ったことを書いてみたいと思います。一応時事を扱いますが、情報を集めたり論拠を挙げたりせず、コネコネと理屈を練るだけですので、カテゴリーは独り言としました。

 

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今週はドイツでも、ネパールの大地震が連日トップニュースになっていました。本日付け(5月4日)のニュースでは死者が7000人になっており、捜索の状況を考慮すれば、まだ増える可能性があるとのことです。

 

もう一つ、個人的に重大なニュースがありました。4月5日の週に取り上げたアンドリュー・チャンと、マュラン・スクマランの死刑が、他6名と共に執行されたそうです。29日の未明12時半との報道でした。アジア・アフリカ会議の終わった先週の土曜日に、執行72時間前の言い渡しがあったのですが、その後も市民キャンペーンは続き、家族や弁護士も必死の抗議をしました。それでもちょうど三日後に、やはり執行されました。各国政府、EU、国連の声明も、届きませんでした。

 

先週取り上げた難民問題にしても、ネパールの大地震にしても、落ち度のない普通の生活者が多数、命を失っています。このブログを始めてから扱ってきたその他のニュースでも、空爆による死、航空機事故による死、様々な形の死がありました。

これらの出来事と比較すれば、数名の死刑による死が重要ではないとも思うのです。

 

しかし個人的に、まだ強い拘りが残るので、その理由について考えてみました。

 

 

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    スクマランの絵画作品「おじいちゃん、最期の日」

 

 

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記事を書く為にインタビューを読んだり、ビデオを観たりして、情が移ったという部分も単純にあります。でもそれだけではない、何かが引っかかるのです。罪を犯した人間が、既存の法律で定められた罰を受けた、それでも何かとても理不尽な気がして仕方がありません。

 

一番の理不尽さは犯した罪の重さと刑罰のバランスが、自分の倫理規範に当てはまらないということによりますが、チャンとスクマランの場合について考えているうちに、死刑自体の不条理というものを、以前より強く感じるようになりました。

 

死刑というのは二つの部分から成り立っています。死と刑罰です。なぜそんな当たり前のことを書くのかと思われるかもしれませんが、ここが重要な点なのです。(そして今日の記事はこのような当たり前のことばかりを書きます。)

 

先ず死について考えてみます。

死の恐ろしさは、二種類に分けて考える必要があります。一つは死ぬことへの恐怖、これは生きている状態が終わってしまうことの恐ろしさです。もう一つは死にまつわる恐怖で、苦痛への恐怖、残された人の悲しみへの恐怖などがあります。死にまつわる恐怖の種類や度合いは、死に方によって色々です。

しかし、死そのもの、死ぬこと自体の恐ろしさは、死が生きている間は訪れないものである以上、死に方が変わっても同等のものであるはずです。死がどのような形でやってこようと、生きていない状態になることは同じで、誰もが一度経験すると言う点についても公平です。厳密にいえば「経験する」と表現するべきでもありません。経験できるのは死の直前までであり、死そのものが訪れると同時に主観は経験することを止めるからです。

 

誰もが一度出会わなければならない事象である死ですが、その訪れ方について、まず「自然さ」によって細分化することが出来ます。最も自然なものは、いわゆる寿命を全うするということです。しかし老衰の場合も、気候などの外的影響があるでしょう。自然さによる区別を続けると、この外的影響が強制的であればある程、より自然ではない死であることになります。そこで、この対極を強制的な死としましょう。強制的な死は、寿命が早い段階で強制的に中断される場合ですが、病死と殺人による死ではその強制の度合いが異なってきます。突然の天災に巻き込まれるか、テロに巻き込まれるかでは、これもまた自然さの度合いが異なります。これらは、死の原因となる事象の発生の仕方に関係しています。つまり、強制的な死は、事象を誘因した要素の責任能力の有無、その事象が主体的な存在によってひき起されたかによって、大別することが出来ます。

 

殺人事件においては殺人者がいます。この死は、別の主体によってひき起されており、これを悪と見做すことが出来ます。これは具体的な怒りの対象となり得るものです。

地震などの天災の場合、欠陥住宅や避難指示のミスなど、副次的な罪を見つけることは出来るかも知れませんが、直接の原因は自然です。これは罪を負う主体の場合と違って怒りの対象になりません。残された人々は、やり場のない怒り、もしくは悲しみばかりを抱えることになります。自然が、善悪の区別も超えた、人間存在やその死をも含む絶対的なものだからです。人間が抗しきれない力であること、病気が治療法に先立つことを考慮して、病死もこの分類に入れることが出来るでしょう。

 

さて死刑の場合はどうでしょう。

死刑執行に関わる主体一人一人は職務をこなしているだけですので、執行人に至っても罪はありません。死刑を定める法律も、その社会に生きる市民を守る為に作られたという点において善であるはずです。殺人の場合、ある主体が行為者として、一方で被害者という主体がある、つまり主体と主体の対峙する状態にあります。自然災害の場合はより強大・絶対的な力であり、対する一つの主体は、自然におけるその部分に過ぎません。法も市民にとって強大な力を持ちますが、国家間の違いが示すように、自然ほど普遍的なものでもありません。法の定める死刑の下では、異なる主体がそれぞれの部分を成し、協力して組織的に死刑囚の命を絶ちます。自然でもなければ具体的な主体でもありません。法律と複数の主体によって機能する、主体的な力です。一つの主体ではない、主体性をもった何かです。法律は法治社会において、ある意味絶対的なものですが、自然と違って人為的なものです。人為的なものである以上、人為的に変えることも出来れば、善悪の区別を超えるほどの普遍性ももちません。その法の適用される地理的範囲においてのみ効力を持ちます。自然の絶対性に対して一主体はその部分に過ぎないと、先に述べましたが、同じような見方をすると、法の有効な範囲においても主体はその部分を形成するということになります。国家の部分としての個人です。

 

自然の部分である人間が、自然の決定を受け入れるしかないのと同じ方法で、国家はその倫理基準を正しいものとします。死刑執行に関わる労働者が罪を負わないということは、死刑囚が殺されることが正しいということです。こういった正しさは死刑に関わる様々な局面に現れます。死刑判決にいたる裁判手続きでの抵抗は、正当性をもって否定されます。そして処刑の際には全く無抵抗な状態で、正確に命を奪われます。無抵抗の人物は社会に危害を与えることが出来ません。社会を守る為の法が、無抵抗な人の命を奪わなければいけない根拠は何でしょうか。

ここには、間違った誰かでも、超越的な自然でもなく、国家が自分の死を要求する、ということの恐ろしさがあります。悪でも絶対的力でもなく、正義が自分という存在の消滅を求めています。

 

殺人は「自然の死期以前に人の生命を断絶する行為」です。正誤や善悪の評価を保留にすれば、死刑もこれに当てはまります。正誤や善悪は、時間や場所が変われば少しずつ異なるものです。

 

こういったことを可能とする国家の権力という側面に注目して、刑罰について考えてみましょう。

刑罰にもまた二つの側面があります。矯正と復讐です。小さなところでは家庭内から、大きなところでは国家間まで、世界には様々な諍いがあります。世界の大小に関わらず、罰というのは大から小へ、権力者から弱者へ与えられます。親子の例を想像しても、大国の軍事攻撃を想像してもよいのですが、罰を与える立場という権力を有している以上、その権力者は攻撃対象を教育・矯正する責任を負います。逆に言えば、矯正の目的以外での罰は単なる暴力に過ぎません。刑罰についても、国家と個人はやはりこのような権力関係にありますから、刑罰の目的も矯正であるはずです。しかし死刑は原理的にその目的が矯正ではあり得ません。刑の執行が矯正の可能性を完全に断ち切るからです。矯正を目的としないで与える罰ならば、国家権力を行使した暴力の一つの形でしかありません。

 

ここで、この権力に注目して、先ほどの三種類の死を、もう一度捉え直してみましょう。力という観点からも自然は圧倒的上位にありますので、自然の力による決定は絶対的です。与えられた寿命の維持を生きるものの権利とみた場合、自然の力は主体性をもちませんので、それに対して権利の主張をすることが出来ません。そのような変更不可能な定めこそ、自然ということであり、その定める死こそ寿命ということです。殺人者については、人の生命を奪う権利がないのに、力によってそれを実行した場合です。これは当然、個々人のレベルでは許しがたいことです。しかし、これは私個人の拙い考えですが、ある個人が自然の部分であることを考えると、このような局部的な悪の発生もまた、社会全体を俯瞰すると自然である、自然の一部であるとすることが出来ます。よって殺人のような悪については、私の個人的な人間観に基づけば、これを起きないようにすることが出来ないと思うのです。

そのような自然発生する局部的不具合を調整し、国家や社会の安定を人為的に維持させる為の規則が法ではないでしょうか。国家や法律というのは、そのような人為的なものですから、その正誤に普遍的でないものがあれば、これを停止する理由があっても、停止しない積極的理由が思いつきません。

 

死刑は、善悪・正誤を決定する権力を持ちながらも実体のない何かに、存在する権利を否定されること、と言い換えてもよいでしょうか。

 

・・・・・・

 

チャンとスクマランの弁護士、ジュリアン・マクマホンはヘロイン所持の罪でシンガポールで死刑となったヴァン・トゥオン・グエンの弁護もしていました。グエンの母と双子の弟コアが死刑執行前の面会を終えた時のことを、マクマホンは以下のよう振り返っています。(4月5日の週で末尾にリンクを掲載した記事「その報いは死」より)

 

耳を刺すような、喉から絞り出された悲嘆の叫び、マクマホンが今まで聞いたこともない、ぞっとする動物的な音が、廊下を滑り降りてきた。グエン夫人はラスリーの、コアはマクマホンの腕の中に倒れ込んだ。母と弟は15分間、かける言葉もない程に泣き続けた。「単純な確信をもって分かったことは、死刑が絶対的に間違っているということだ。彼らが受けなければいけなかった苦しみにおいて間違っている。あの最後の無意味で無益な別れにおいて。」

 

 

家族にとっては、たとえ犯罪者であってもその死は辛いものです。それでも殺人者の家族であれば、同時に自分の家族が他人に与えた苦しみの大きさを思い知らされるかもしれません。しかし薬物密輸はどうでしょう。自国であれば懲役刑で済んでいた犯罪のせいで、正義によって無抵抗な状態で確実に命を奪われなければならない。知的で健康で才能あふれる青年が、心臓を撃ち抜かれ、その穴から血を流して、死ななければいけない。家族にとっては到底受け入れられるものではありません。

 

・・・・・・

 

刑法のような問題は、感情ではなく理性で論じるべきと4月12日に週に自分で書いておいて、矛盾するようですが、以下にチャンとスクマランの家族の写真を転載します。

普遍的な正誤があるならば、それは人間が直感的に捉えるものだと信じるからです。そのような「単純な確信」を後から理屈で支えていけば、それが出来れば、その直感は正しかったということでしょう。

 

                                  

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チャンは執行の前日に、拘置所で結婚した。

 

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初めて、そして最後に会った甥を抱くチャン

 

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チャンの両親。幼少時代のチャンの写真を手に。

 

 

 

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最後の面会の後で記者に囲まれ恩赦を請う、スクマランの弟と妹

 

 

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スクマラン、弟妹とともに。88年の日付が見える。

 

 

 

4月5日の週で末尾にリンクを掲載した記事「その報いは死」ジョージ・オーウェルの「絞首刑」の一節が引用されていました。(独り言ですので孫引きします)

 

おかしなことだが、意識のある健康な1人の人間を破壊するということの意味を、その瞬間まで、実感したことがなかった。水たまりを避けようとして、一歩横に踏み出した囚人を見たそのとき、私は満ち溢れる生命が短く断ち切られることの、言葉にできない不当性を、理解を超えた何かを、見た...

 

彼も我々も、この同じ世界を見て、聞いて、感じて、理解して、共に歩く一つの集団であった;そしてたった二分の間に、突然ぷっつりと、我々の1人が居なくなる ――意識がひとつ少なくなる。世界がひとつ無くなる。

 

インドネシアでは銃殺刑の際、死刑囚は目隠しの有無を選ぶことが出来ますが、チャンもスクマランも、目隠し無しを選んだそうです。

 

彼らが最期に見た世界はどのように消えていったのでしょうか。最期にどのような感情を抱えていたのでしょうか。ここではチャンとスクマランに注目しましたが、同時に執行された他の6名もそれぞれの物語を抱えています。分裂症で、執行の直前まで処刑されることを理解出来なかったといわれるブラジル人のロドリーゴ・グラルテ、最後の面会にきた子供たちをおんぶしていたというナイジェリア人のシルベスター・オビクウェ・ンヲリセ、それぞれの世界が、実体のない何かの強制的な力によって、一つ一つ消されたのです。

 

執行前最後の面会を終えたチャンの兄の会見を引用し終わりにします。

 

私が今日、目にしたものは、今後いかなる家族も受けるべきではない苦しみである。拘置所の中で九つの家族が、愛する人に別れを告げた。子供たち、母親たち、いとこたち、兄弟姉妹たちが、それきり最後の別れを告げ、その場所を離れること、これは拷問である。

 

 

 

 

地中海の密航船事故再び

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去年も多発していた難民ボートの沈没事故ですが、今年の死者・行方不明者のペースは去年より増加しており、19日未明の沈没船による死者・行方不明者は史上最悪の規模になってしまいそうです。

冒頭のターゲスシュピーゲル紙一面の写真はまた別の密航船ですが、大変心を打ったので掲載しました。これでは画質が悪くて表情までは確認できませんが、写真をよく見ると、船上の人々が皆、上を見上げて笑っています。赤ん坊を抱える人も、女性も居ます。その一人一人から、喜びが溢れ出ていることが見て取れます。上空の報道ヘリコプターに、生き残ったことを、生きてヨーロッパ圏にたどり着いたことを知ったからです。この歓喜の表情に、それまでの不安や苦しみの大きさが想像されます。子供を連れてこのような賭けに出る親の不安はいかほどでしょうか。そこまでの危険を冒して抜け出したい故郷は、どれほどの状態にあるのでしょうか。

 

 

・・・・・・

 

 

〈今週〉

 

19日未明 

リビア沖約130kmで木製・全長20~30mの漁船が、イタリア海岸警備に救助の要請をする。救助に向かったポルトガルの貨物船が現場に到着した際に転覆する。原因については、船長が逮捕を逃れ難民に紛れ込む為に舵を離れ、救助を求める人々が貨物船側に集まり重心が偏ったという説が多いが調査中である。28名の生存者が証言するところによると、700~950人が搭乗しており、約300名は施錠した貨物室に閉じ込められていた。沈没地点は海底が深くなっており、引き上げは困難であるという。

 

20日   

生存者の内、27歳のチュニジア人船長が、過失致死、海難事故惹起、及び違法入国補助の容疑で、25歳のシリア人運転士が犯罪行為幇助の容疑で逮捕される。

EU各国の内相・外相ルクセンブルグに招集される。すぐに実行可能な10ヶ条のプランを提示、これを木曜日の首脳会議で検討する。

リビア沖でゴムボートが合計6隻発見される、合わせて638名が保護された。ギリシャロードス島でも観光地の海岸で難民のボートが座礁、海岸から100mの位置だったが少なくとも3名は死亡、93名が救助された。200名程が乗っていたという。

 

21日   

日曜日の事故を受け、リビアでは密航者で満員の船を複数出港停止させた。ヨーロッパに向かうつもりであった600人以上のアフリカ人が足止めされる。

カラブリア沖で446名を保護。

 

23日 

ブリュッセルで特別EU首脳会談

ギリシャ沖で難民船が救護要請を発信、90名が保護された。

 

24日

地中海で334名が保護される。

 

25日

リビア沖海上で274名が保護される。

 

 

〈背景〉

 

地中海を渡ってくる難民は、2014年は2013年の4倍、2015年は2014年の10倍のペースで増加しており、注目に値する。2015年は現時点までの死者・行方不明者の累計が2014年の同時期に比べて30倍になっている。このままだと数週間で去年の死者・行方不明者数を超える恐れがある。先週もリビア沖で400人が行方不明になった転覆事故があったばかりで、この事故で救出された144人を含むと、たった1週間の間に8500人がイタリア海岸警備隊に保護されている。

行方不明者数に関しては出国記録がないので把握が難しいが、ある調査では過去10年に2万人、また別の調査では過去15年で2万5000~8万の死者が推定されている。

 

人々が故郷を捨てヨーロッパを目指すとき、貧困、宗教的迫害、政治的迫害など、抱える理由は様々だ。この地中海コースのような命がけの経路で多数の難民が渡ってくる場合、現地でも命に関わる喫緊の状況にあると考えるのが自然である。つまり難民の数に突出した変化が見られるということは、国内情勢に劇的な変化があった時期と重なる。ここ数年は増加している難民の総計も、一定に増加し続けている訳ではなく、増減の波を描いている。

例えば2012年に渡航してきたチュニジア人は2011年の10分の1以下に過ぎない。2014年の地中海経由難民の半数がシリアとエリトリア出身だ。内戦の長引くシリア、独裁者の圧政下にあるエリトリア、どちらの国も大変厳しい状況にある。それでも地中海コースを取るのはほんの一部で、シリア人を例にすると1%程度に過ぎない。その他の人々は陸続きの周辺国に逃げたり、混乱する国内を逃げ回っている。

 

政情不安によって、当該国市民のみならず、出稼ぎ外国人の流動ももたらす。最近では特に社会不安に伴う宗教差別が挙げられる。例えばリビアに何年間も住んでいる、サブサハラアフリカ圏からの出稼ぎ労働者は、キリスト教であるが故に迫害されるようになったと話しているが、同様の報告が近年増加している。これを裏付けるように先週は、地中海を北上中の難民ボート上から、12名のキリスト教徒が15名程のイスラム教徒に突き落とされるという事件も発生した。

 

 

〈対策・課題〉

 

日曜の事故を受けて、月曜日の外相会議・対策草案の発表と、行動の速さには驚かされるが、実はこの10ヶ条プランの内容に目新しさはない。ランペドューサ沖転覆事故の後に出された欧州評議会の内容と殆ど変わりはなく、むしろ喉元を過ぎて危機感が忘れられていたことを思い出させるようだ。

10ヶ条プランの要点は:

1.トリトンポセイドンの強化

2.仲介業者所有船の破壊(ソマリア沖対海賊作戦アトランタを参考にする)

3.国境・難民に関わる各主要機関の情報共有(仲介業者のメンバーや資金の流れを追う)

4.欧州難民問題支援機構はイタリアとギリシャに支援チームを送り手続きを迅速化させる

5.すべての難民の指紋を採取

6.難民の分配をスムーズにする共同のシナリオ作成

7.緊急を要する難民5000人を受け入れるパイロットプロジェクトの実行

8.フロンテックス主導の強制送還プログラム

9.リビア周辺国と欧州協議会と欧州対外行動局の協力関係構築

10.現地から難民動向を報告する公務員の派遣

 

10ヶ条プランの他にも、政治家、メディア、人権団体など各方面から、様々な対策案が出されているが、整理する為に種類毎に分類する。

1.難民船の救助(既に海洋に出てきた難民の救助)

 a.監視・救助の強化

 b.救助後の難民の国家間での分配

2.仲介業者の撲滅

 a.仲介業者所有船の破壊

 b.現地への合法な難民窓口設置、ヨーロッパによる格安・安全な輸送

3.出身地・中継地の状況改善

 a.紛争地からはビザ手続きの不要な緊急受け入れ(緊急対策)

 b.政情安定化の為の政治的努力(中期的対策)

 c.貧困地への援助、貧困地域との適正な価格での取引(長期的対策)

 

1が最も急を要することであることは確かだが、重要な点は1、2、3が同時に実行されるところにある。1が2に先立てば仲介業者の利益に繋がり、1、2が3に先立てば難民が行き場を失う。ヨーロッパの倫理が何もしないことを許さない以上、何から何までせざるを得ないということだ。

そして木曜日の緊急首脳会議では、より具体的な方向性が検討された。しかしEU各国の間にも温度差がある。合法的難民受け入れも、難民の分担制も、結局現時点で難民の負担が軽い国は積極的ではない。オーストリアやドイツなどあらゆる点に積極的な国もあれば、難民救助や現地対策に協力的でも自国への難民増加を望まないというイギリスのような国もあり、より厳しい取締りを望むハンガリーのような国もある。多くの点で意見の一致が出来なかったことで、会合の成果がぼやけてしまい、首脳会合自体が「象徴的な集まり」と揶揄される結果となった。

 

比較的具体的な段階まで話しが進んだのは、海上警備の予算と、パイロットプロジェクトについてであると評価して良いだろう。それでも、人権団体やメディアからはその内容について批判が出ている。

まずパイロットプロジェクトへの批判は、5000人という受け入れ人数が少なすぎるという点と、自発的な参加によるプロジェクトであり、そもそも難民に寛大な一部の国に参加が限られるであろうという点である。参考に挙げておくと、日本で実施されたミャンマー難民受け入れのパイロットプロジェクトで用意された受け入れ枠は年に30人である。

 

次に海上警備についてだが、トリトンポセイドンというのは、欧州対外国境管理協力機関(通称:フロンテックス )のプロジェクト名で、トリトンはイタリア南海岸、ポセイドンギリシャ海洋を管轄地域とする。10ヶ条プランの段階では予算倍増と設備(船、ヘリ)の導入が挙げられていたのが、首脳会議では3倍増の予算に加え、各国から申し出のあった軍艦などの具体的な利用設備まで纏まった。それでも、批判されるのはトリトンのこれまでの予算が、月290万ユーロ、ポセイドンは月約60万ユーロと小額であったためである。3倍増の900万ユーロといっても、イタリア海軍が以前単独で行っていた海洋警備隊、マーレ・ノストルムの最終月間予算930万ユーロにやっと届くかどうかという程度だ。

 

ランペデューサの事故を受けて創設されたマーレ・ノストルムは、1年の活動で15万810名の難民を救助しており、(活動期間中に表面化した死者は推定3500名)何かとトリトンと比較されることが多い。マーレ・ノストルムは2014年10月に、経費上の理由で中止された。この中止については、イタリアの度重なる資金援助の要請にも関わらず、イタリア海軍を資金の面で孤立させたEUの責任も大きい。その後継作戦としてフロンテックスのトリトンが開始されたが、ヨーロッパ国境の監視が業務であり独自の船などは持たない。

ワルシャワにあるフロンテックス本部では、1日に2度更新される地中海の衛星やドローンによる画像が表示されている。担当者は疑わしい船舶をズーム確認、ゴムボートなどを発見すれば通報する。国境の監視を業務とするフロンテックスの役割はここまでであり、これらの難民の救助に向かうかどうかは各国の責任となる。しかし、イタリア・マルタ間など、海上の救助管轄範囲は特定しづらいことも多い。しかもリビア海域までをパトロールしていたマーレ・ノストルムと異なり、トリトンの監視区域はイタリア海岸より南30海里(約55km)までである。管理区域の拡大は木曜日の決定には含まれず、これについては再検討の必要が訴えられている。

人権団体、各紙、ドイツ政府内部からも、トリトン強化よりも、これを廃止して、その資金・装備援助を使ってマーレ・ノストルムを再開させる方が効果的である、という声が多く聞かれる。

 

海洋救助のジレンマとして心配されているのは、救助体制を整えればこういった密航は増え、仲介業者のビジネスに協力することになるということである。これはイタリア海軍のマーレ・ノストルムがEU各国から受けた批判でもあった。警備海域をリビア沖まで広げれば、仲介業者の成功と効率は上がり、事故のリスクが減る。ヨーロッパの船に助けてもらえることを期待して、より多くの難民が危険な航海に出ること、より状態の悪いボートが使われることに繋がる。またヨーロッパによる国境警備が厳しくなってからは、逮捕を避けるため、操縦士が自動操縦にセットし先に船を降りるケースが増えている。

しかし実際には難民の急激な増加はマーレ・ノストルム開始の4ヶ月前に起きており、終了後の今春も増加し続けている。救助体制よりも、当該地の情勢が難民の増減を決定しているからだ。ギリシャがトルコ国境に高さ4mの有刺鉄線を作った後も、仲介業者の報酬が増え越境の危険性が上がっただけで難民の数は減らなかった。アメリカもメキシコ国境の監視に多額の予算を導入したが、それでも年間35万人の南アメリカ人がアメリカに入国している。海難救助をすれば、結果として仲介業者のビジネスの業務を手伝うことになるかもしれない。しかし国境をより厳しく管理すれば、彼らのビジネスを価格の面において手助けすることになる。

 

そこで仲介業者撲滅を並行して行わなければならないのだが、数年に渡って地中海の密航仲介業者を調査したジャーナリストによると、仲介業者は一概に批難されるべき存在ではないという。そもそも長期ビジネスとして密航業を運営していた組織的な業者にとっては、顧客獲得の為の渡航成功が重要であり、それなりの努力をしていた。しかしリビア崩壊後の混乱に乗じて、アマチュア業者が多数参入したことが、事故の多発に繋がったという。こういった状況から、一部では業者同士の抗争も起きている。

多くの渡航希望者は自国で迫害されており、ヨーロッパで難民の条件に当てはまる人々だ。不法な国外脱出を幇助することは、法律に反してはいるが、そのことによって自国で生命の危険に脅かされている人々を救っているという見方も出来る。視座を変えれば、EUが国際法に反して難民の渡来を意図的に防いでいるが故、人々は財産をなげうって高額な違法仲介業者に依頼し命の危険を冒しているということも出来る。

 

仲介業者撲滅の一環としてEUは、不法渡航に使われるボートの破壊を検討しているが、現存の渡航手段を経つ以上、代替渡航手段を確立させる必要がある。この為に求められるのが、現地での正当な難民の窓口だ。避難先に辿り着かなければ難民申請できない仕組みこそが、危険な渡航の理由であるという考え方だ。出身地と出港地、すなわち中東及び北アフリカに難民センターを建設し、宿泊施設・食事・相談窓口の設置、現地から難民申請を出来るようにする。この場合も、海難救助と同じく心配されるのは、更なる難民の増加である。しかし合法な移民の受け入れがなくても、難民の数は増えている。それならば合法な移民の受け入れは、違法な移民を減らすと考えるべきである。

 

海難救助にしても現地での窓口設置にしても、それが難民の増加を招くという発想は、根本的な想像力が欠如している。助けてもらえるから海に出る訳でも、現地に窓口があるから申請する訳でもない。これらの人々が、現地での窓口がなくても、危険な海を渡ってでも、ヨーロッパを目指しているということを見逃してはいけない。

 

このような状況に、オーストラリアのアボット首相は自国の方針を最適とヨーロッパに助言した。オーストラリアは、難民船を捕らえては第三国に移送する方法を採用しており、アボット首相はこれが危険な航海や海難事故を防ぐ為にも一番よいと言う。

オーストラリアに向かう難民船は海軍によって捕らえられ、難民はナウル島などに設置された難民キャンプに移送されれている。受け入れ国は「転送」されてきた難民に滞在許可や様々な援助などを提供する代わりに、オーストラリアから多額の開発援助金を受け取っている。同じようにカンボジアインドネシアベトナムパプアニューギニアなども移送先になっており、既にイラン、アフガニスタンパキスタンスリランカなどからの難民を多数、各地に移送している。

しかし移送地での生活条件は苦しい上に、難民キャンプの管理は民間会社に委託されており、管理者側からの暴力や略奪、難民による小規模の暴動や自殺も発生しているという。

 

同様の対応はヨーロッパも一部で10年以上してきたことで、北アフリカの中継国を第三国移送先として、これらの国にEUが資金援助を行ってきた。例えばチュニジアには難民送還の協力として年間140万ユーロの追加資金援助を約束した。しかしながら、この方法は一部の難民に適用するのみであれば、ヨーロッパ圏入国の可能性が残り、危険渡航の抑止にはならない。しかし全面的な適用はヨーロッパの価値観とは合わない。ドイツの世論調査では、全難民移送の支持は12%に過ぎなかった。その上、オーストラリアと人数の規模も異なる為、採用候補として検討されることはないと思われる。

 

続いて現地での対策だが、喫緊の課題としては、現在急増している危険渡航を防ぐことであり、この時に特に重要となってくるのがリビアである。既に述べたように大多数の船の出港地となっているリビアは、シリア、エリトリアをはじめ、サブサハラアフリカ各国やパキスタンバングラディッシュと、別地域から流入してきた人々にとっての、ヨーロッパへの最終中継地となっている。モロッコに領地を持つスペインは、モロッコ警察との協力により難民の流入を防ぐことに成功しており、現地への開発援助と現地保安機構とEUの協力関係構築の組み合わせを提案する。リビア海岸の出港を管理する為には、現地保安機構やリビア政府との協力関係が欠かせないが、交渉相手となるべき安定した権力を持つ政府が不在の状態だ。ガダフィ政権時代はリビアを出港地にする難民がこれほど居なかった、ヨーロッパが同じことをしかも道徳的に出来るだろうか。二勢力が政府として分立し、それを機会に勢力拡大を狙うイスラム国系の武装勢力がテロ行為を行っている混乱の中、地域で仲介業者や密航を管理するには、海軍を動員する必要があると考えられる。イタリアの内相アルファノは、国連難民高等弁務官事務所主導の難民キャンプをニジェールスーダンチュニジアに設置することを提案している。管理の困難なリビアにこだわらず、周辺国で足止め・誘致するという考え方だ。

 

より長期的な対策としては、難民の出身各国での援助が挙げられる。難民最多排出国のシリアとエリトリアはどちらも現政権とのより強い姿勢での対話が求められる。ただ西欧の介入が、現在の中東の混乱状態の一端を担っていることを考えれば、慎重にならざるを得ない。

エリトリアでは徴兵制度が国外脱出の最も大きな原因となっている。青年には期限無しの徴兵が課され、家族は収入源を失う。徴兵を逃れ国外へ渡り、外国で得た収入を家族に仕送りするというのが彼らの目的だ。しかしエリトリアの政治構造上、資金援助が問題解決に繋がりづらいというのも現状あでる。そのため目下ドイツはエリトリアへの援助はごく限定的であり、エリトリアなど周辺国の難民が約63万人滞在するエチオピアでの援助・協力に力を入れている。

シリアは内戦の長期化に加え、昨年からはイスラム国の台頭による宗教難民も増えている。中途半端な介入をして更なる混乱を起こす危険を選ぶよりは安定地域の開発援助に力を入れ、その土地への帰国、移民を促す方がヨーロッパの役割として適当かもしれない。

 

最後に、ヨーロッパ到達後の難民についてだが、提案されている事項の一つにEU各国への難民の分散負担、その為のダブリン第三合意の棚上げがある。ダブリン第三合意に基づくと難民は到着国で指紋を採取され、指紋採取国で難民申請をしなければならないことになっているが、別のEU国に親戚が居る場合など、地理的に到達し易かった国とは別の国での難民認定を望むケースもある。その場合、到着国出国希望者は指紋の採取を拒むが、中には暴力を伴う強制的な指紋の採取がされたという報告もある。一方で地理的に多数の難民が到着するイタリアなどで、意図的に登録をせず、他国へ移動させているともいわれている。他国で難民申請の受理され易いシリア人やエリトリア人などは登録の省略が行われており、国籍による待機時間の差別に繋がっているという。しかし10ヶ月で15万人が到達したというイタリアにとって、負担が大きすぎるということは理解しなければいけない。

 

EU28カ国のうち、難民の約半数はドイツ、フランス、スウェーデンの3カ国による受け入れとなっている。さらにイタリアとイギリスを加えた上位5カ国の受け入れ割合は70%に及ぶ。ドイツにおける昨年の難民申請は前年比60%増加の20万2834人、今年に入ってからは更に増加の傾向にある。フランスでは64000人の難民申請があったが、申請の結果が出るまでに平均で18ヶ月の待機時間があり、受け入れ施設も定員オーバーしている。こういった一部の国で事務処理や一時待機施設の容量を超えている。ヨーロッパを目指す難民の60%が、特定の国を予定していないという調査結果がある。これらの状況を踏まえると、各国での負担分担をしない理由は見当たらない。分散受け入れ制度が導入されれば難民が増えることになるポーランドなどの国は、この変更を望んでおらず、流入の阻止を強化すべきだとする。

 

難民受け入れ上位国の中でも、更なる難民の増加を望まない声もある。その理由として挙げられているものに、国内右翼勢力の支持が拡大するというものがある。大規模な難民の増加が一般市民の右傾化をもたらすことを憂慮したものであるが、短期的により心配されるのが、極右による難民への攻撃だ。ドイツでも先月、ザクセン・アンハルト州の田舎町で難民宿泊施設への放火があった。ドルトムントでは、難民宿泊施設の周りを覆面をした40名の過激派右翼グループが、松明を手に「外国人は出て行け」のかけ声とともに行進したという事件もあった。

既に難民を多く受け入れている国家は、更なる難民を受け入れる用意があり、難民の少ない国家は国境警備の強化を望む。外国人の少ない地方都市の方が、差別的事件が多く、外国人の多い場所では、極右の活動は小さい。これらの状況は論理的に、ある事実を示している。つまり難民や外国人を受け入れたら起こりうる変化や危惧、或は、より短絡的な人種差別は、外国人の居ない地域で大きいということである。

 

しかし、難民に関して事件を起こすのは、地元住民に限らない。10代のアフガン人同士の刺殺事件や、100人規模の成人による集団の喧嘩をはじめ、難民同士の暴力事件も絶えない。難民が急激に増加したことにより、普通住宅の斡旋が間に合わず、プレハブの仮設住宅での待機が長期化しており、人々のストレスが溜まってきている。そもそも戦争のトラウマなどを抱えた人も多い上に、仮設住宅施設は過密状態にある。

 

こういった更なる課題に対処していく為にも、これまでの難民受け入れの経験を生かすことが求められる。各国での分担が始まる場合、「受け入れ先進国」は新規受け入れ国をサポートすることが求められる。

 

首脳会談で持ち越された課題も少なくないが、難民問題は6月初頭のG7でのテーマの一つになる。

 

これから夏になると海の状態が良くなるため、密航船は増えると予想されている。

 

 

・・・・・・

 

〈感想〉

 

我々島国の感覚からすると、EUの懐の大きさに感心してしまいますが、ドイツではむしろ対応の遅さ、甘さへの批判の方が目立ちます。EUは難民問題を見ないふりしているという批判にかけて、見ないふりなどしていない、見殺しにしているという批判すらあります。その基礎には、戦争や政治的迫害から逃れてきた人々を救うと約束する欧州連合基本権憲章があります。日本では考えられない程、先進国としての責任が問われています。

昨年EU圏に入った難民は62万6065人であり、これも日本人にはちょっと考えられない量です。それでもメディアでは人口5億のEUにとって、60万の難民は困難な数字ではない、人口600万人のレバノンでは100万人以上のシリア人難民を受け入れた、と評価されています。

 

日欧の感覚の違いは一般市民だけでなく、政治家の発言にも現れています。以下に、特に印象的だったドイツでの発言を少し紹介します。

 

メルケル首相「(人々がヨーロッパの入り口でこのような死に方をすることは)我々の価値観に合わない」

首相報道官ザイバート 「このような状態はヨーロッパに相応しくない」

欧州議会議長シュルツ「こんなにも多くの国が責任から逃れ、こんなにも微々たる資金しか救援活動に用意しないのは、狭量の証明であり恥である」

内相デメジエール「このことについてEUは罪は負っていないが、この問題を解決する責任を負っている。」

ツァイト紙「完璧な解決策がないことは、何らかの手を打たないことの理由にはならない」

 

先に述べたように、難民が多い国の方が受け入れに積極的であり、日本人の抵抗感の理由の一つに難民の少なさもあるかもしれない、などと思います。少子化・人口減少の進む日本でも、移民政策について話題になり始めています。受け入れ後進国である日本は、その立場を利用し、既に多くの経験を積んだ移民国家から成功と失敗を学び、参考にすることができます。国連事務総長パン氏は、難民問題解決のための国際的社会の団結と負担分配を呼びかけました。日本の国連難民高等弁務官事務所への資金提供は世界第二位ですが、3260件の難民申請に対し、2013年に受け入れられた難民は6人です。資金以外の方法、例えばより様々な分野の専門家を現地難民キャンプへ派遣すれば、将来的な受け入れの可能性を検討する為にも、勉強になるかと思います。

 

地中海難民の記事には、沈みかける船や、木の切れ端に掴まる人、色々な写真が出ていましたが、親から離れ知らない外国人の救護隊に抱かれ泣き叫ぶ幼児が、それでもその救護隊にしっかりとしがみついているのが印象的でした。

 

 

〈参考記事〉

 

https://www.bundestag.de/dokumente/textarchiv/2014/kw27_pa_innen/283326

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/fluechtlinge-mittelmeer-eu-aussenminister-plan

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/eu-staats-und-regierungschefs-fuer-gipfel-zu-fluechtlingskatastrophe

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/mittelmeer-katastrophe-kapitaen-verhaftet

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-04/mittelmeer-fluechtlingsschiff-in-seenot

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-04/mittelmeer-fluechtlinge-schiffsunglueck-sicherheit

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-04/leichen-fluechtlinge-malta-bootsunglueck

http://www.zeit.de/kultur/2015-04/schleuser-giampaolo-musumeci-interview

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/fluechtlinge-fluechtlingspolitik-eu-mittelmeer-frontex

http://www.zeit.de/politik/2015-04/fluechtlinge-eu-sondergipfel-militaereinsatz-libyen-schlepper

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/fluechtlinge-eu-sondergipfel-frontex-triton-mission

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/mittelmeer-fluechtlinge-mare-nostrum-deutsche-debatte

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/italien-fluechtlinge-unterkuenfte-probleme-mittelmeer-mare-nostrum

http://www.zeit.de/politik/deutschland/2015-04/mueller-fordert-wiederaufnahme-mare-nostrum

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-04/fluechtlinge-muslime-christen-boot-mittelmeer-verbrechen

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-04/fluechtlinge-mittelmeer-libyen-ertrunken-frontex-italien

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/australien-kambodscha-abkommen-fluechtlinge-blutgeld

http://www.zeit.de/2015/15/rechtsextremismus-neonazis-npd-nsu-dortmund

http://www.zeit.de/2015/17/fluechtlingsheim-gewalt-sozialarbeiter

http://www.zeit.de/wirtschaft/2015-04/afrika-gerd-mueller-entwicklungsminister-wirtschaft-kolonialzeit-verantwortung

http://www.zeit.de/politik/ausland/2015-04/eu-gipfel-fluechtlinge-10-punkte-plan

http://www.faz.net/aktuell/politik/ausland/afrika/fluechtlingstragoedie-im-mittelmeer-politik-unter-druck-13547913.html

http://www.faz.net/aktuell/politik/europaeische-union/weiteres-fluechtlingsschiff-mit-300-menschen-in-seenot-13548365.html

http://europa.eu/rapid/press-release_IP-13-1199_de.htm

http://www.spiegel.de/politik/ausland/fluechtlinge-im-mittelmeer-fakten-zu-den-bootsfluechtlingen-a-1029512.html

http://www.spiegel.de/politik/ausland/flucht-uebers-mittelmeer-europa-braucht-legale-einwanderung-a-1029417.html

http://www.welt.de/politik/ausland/article140065900/Vor-allem-die-Italiener-sind-auf-Merkels-Seite.html

http://www.welt.de/politik/ausland/article140006656/EU-verdreifacht-Mittel-fuer-Seenotrettung.html

http://www.mainpost.de/ueberregional/politik/zeitgeschehen/Kollision-als-Ungluecksursache;art16698,8684907

http://www.focus.de/politik/ausland/rettung-verfolgung-asylbueros-10-punkte-plan-das-sind-die-schnellen-eu-massnahmen-gegen-das-fluechtlingsdrama_id_4626018.html

http://www.kfibs.org/assets/files/article/KFIBS-Analyse_3_2015_Fluechtlingskatastrophen_im_Mittelmeer_u._EU-Zuwanderungspolitik_Hoehn_Final.pdf

https://mediendienst-integration.de/fileadmin/Dateien/Informationspapier_Mittelmeer_Fluechtlinge.pdf

http://www.t-online.de/nachrichten/deutschland/id_73831548/deutsche-wollen-laut-umfrage-legale-einwanderung-ermoeglichen.html

http://www.zeit.de/politik/ausland/2014-04/japan-fluechtlinge-einwanderer

 

死刑廃止論支持の法務大臣たち/死刑に関する世論調査の妥当性

 

 

先週は、死刑と言う大きなテーマに足を踏み入れてしまい、なんだか纏まらないうちに一週間が経ってしまいました。今週は少し立ち止まって、死刑にまつわるテーマにもう一歩踏み込んでみたいと思います。注目の時事はお休みします。私がはまった深みは以下の2点です。

 

深み1「法務大臣という職務と私人としての思想」

先週のテーマを調べている中で、死刑廃止へと繋がりうる流れを作ったと取り上げられていた千葉景子氏について興味を持ったので、彼女について、また他の死刑廃止論者の法務大臣について、もう少し詳しく調べてみたいと思います。

 

深み2「死刑存廃論の経年変化」

先週もちらりと書きましたが、年々増え続ける存置論者と、減り続ける廃止論者の流れは、世界的な動きとは真逆の傾向を示しています。この原因については、一週間経っても見当もつきませんので保留にして、今週は、この世論調査の、並びに、その有効性を疑問視する日本弁護士連盟の意見書の、妥当性について考察したいと思います。

 

 

・・・・・・

 

2010年頃は修士論文などを書いていて、日本のニュースにとても疎くなっていた時期で、恥ずかしながら千葉氏については、今回初めて名前を知りました。刑場公開については辛うじて耳にしていたのですが、これまで非公開だったのか、というぐらいで、誰かの尽力の上で実現した事だとは考えが及びませんでした。

インターネットで千葉氏について検索してみると、検索候補には極左反日などと出てきて、いわゆる悪口のような書き込みが目立ちます。これは別の政策から生まれた批判者が多いように思いますが、死刑に関わる問題でも、死刑存置論者・廃止論者双方からの批判が検索結果に並びます。

一連の出来事や論争を全く素通りしていた無知な私ですが、彼女の大臣就任以前の発言から執行立ち会いに至るまでを調べていると、むしろ筋が通っているのではないかと思いました。死刑執行の決裁をしたところで、個人として死刑廃止論者であり続けている事は、その言動を見れば明らかです。

 

ちょうど今週、朝日新聞で、個人の信条と職責の矛盾についての記事が出ていました。

http://globe.asahi.com/feature/101018/03_3.html

アメリカの、ある公選制の検事、クレッグ・ワトキンス氏を取り上げており、日本の法務大臣とは立場や役割が異なりますが、抱える矛盾は同じです。ワトキンス氏は、職務は法に従い履行していく一方で、自分の所轄内での過去の案件を精査し直すことで、15名の死刑囚を釈放したそうです。信条に反する職務も、信条に従う活動も、法に従って行うというあり方です。

 

ワトキンス氏のこういった態度は、後藤田正晴氏を彷彿とさせます。3年4ヶ月の実質的モラトリアムを自身の代で終了させた後藤田氏ですが、彼の言動も法の定めるところに従うという点において一貫性があります。

15名の釈放に繋がった調査のやり直しは、刑場の公開や勉強会の設置、取り調べの可視化法案などを実現させた千葉景子氏に共通します。法に従い職務は遂行するが、法の範囲で出来ることからしていくという方法です。

 

・・・・・・

 

〈1〉

 

死刑廃止論法務大臣が個人的な信念を貫けば、職務と私人としての立場を混同していると言われ、私人としての考えを停止し、規定の職務を果たしても、矛盾や変節などと批判される。それでは廃止論者は法務大臣の打診を辞退するべきだ、という意見も見られるが、それでは死刑存置論者ばかりが法務大臣につくべきなのだろうか。制度と私人としての思想が合致していても、その個人的思想が職務に持ち込まれていることには変わりはないのではないだろうか。(その極端な例としては鳩山元法務大臣が挙げられる。)国民の一部が廃止を望んでいるなら、時には廃止論者が法務大臣の職に着く事が妥当なのではないか。

こういった問いに触れる為、以下では特に三つの言説に注目した。まずは就任会見で決裁不履行を表明し(てしまっ)た杉浦正健氏の発言、そして時間を遡って後藤田正晴氏の見解表明、最後に千葉景子氏の執行命令について、それぞれ考えてみたい。

 

まず最初に法務大臣の死刑にまつわる権限について確認しておく。

以下が刑事訴訟法第475条に規定されている、法務大臣の権限である。

 

第四百七十五条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。

○2 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

 

※諸刑罰の中で、その執行に法務大臣の決裁を必要とするのは死刑のみである。

 

宗教的な理由などで執行決裁の不履行を宣言した法務大臣は過去にもいるが、近年では杉浦正健氏の発言が論議を呼んだ。彼は就任記者会見においてサインをしないと明言、対する、なぜサインをしないのかという問いに「それは、私の心の問題というか、宗教の問題というか、宗教観というか、哲学の問題です。」と回答する。翌日それは個人の心情を吐露したものであり、職務の執行について述べたものではないと訂正した。

この発言が批判されるときに指摘される問題点は、私人としての信条を大臣としての職務不履行に持ち込んでいるという点である。一方そういった批判に対する反論も、その上に成り立っており、大臣の法的義務を疑問視する方法をとる。しかし私の考えでは、この発言の問題は、自身の信条を宗教の問題としたところにある。彼の思想、倫理観がたとえ宗教によるものであったとしても、宗教の話しを持ち込むべきではなかった。彼にとっては宗教の問題は哲学の問題と直結しているかもしれないが、これでは無宗教や他宗教の人からの理解を得づらい。信仰というのは理性的判断を超えたものを含むことが可能であり、法的・行政上の判断を扱う場において相応しくない。他者の宗教や思想を選ばずに、相手に論理的に説明可能な根拠があれば、それが私人としての思想であろうとも、職務不履行の根拠として提示できるはずだ。これは「心の問題」としたところ問題でもある。責務を逃れるのであれば感情ではなく理性の判断であるべきであり、信仰ではなく信念によるものであるべきだった。

これはモラトリアム期に法務大臣を務めた佐藤恵氏についても言えることで、「万物すべて命がある。皆、生きる権利がある。一体、それを断ち切る権利というものが人間に与えられているのか。生きる喜びを与えるのが宗教であって、人殺しをするのが宗教ではない」という発言があるが、法制度の執行を問題にする時、後半が不要である。国家の制度や公務員の職務についての問題であるのだから、文中の「宗教」を「人間社会」などに置き換えた方が、より多くの人の共感を得られたのではないだろうか。

 

先に少し触れた後藤田氏は、執行決裁の義務を負うべきという考えで、こういった信条によって刑の執行を命じない法務大臣を批判する。以降この言説は、存廃双方において多用されている。

後藤田氏の発言の要点は

「裁判官が厳密な調査の上に判決しているのに、法相が個人的な思想信条、宗教観で執行しないなら大臣に就任するのが間違いであり、職を辞するのが当然だ。裁判官の判決を行政が執行しないということでは法秩序、国家の基本をゆるがせるのではないか」

というものである。

 

これは、衆議院調査局の死刑制度に関する資料を参照したものだが、この中に国会における死刑制度を巡る議論がまとめられている。この資料だけでは各法務大臣がどのような思想を持っていたのかは判断しかねるが、立場上、現時点では存在する制度への理解を求めるものになっている。質問自体もそれぞれ少しずつ異なるので、内容の評価は避けるが、ここでの国民世論の引用目的について、気に留まったことを一つ述べたい。これら議論において、殆どの歴代法務大臣が世論の廃止反対を取り上げている。これを厳密に分析すると、世論の利用のされ方は3種類に分けることが出来る。使用頻度の多い順に以下に示す。

 

①国民世論を考慮すると死刑は存置されるべき 

②国民世論を考慮しながら検討すべき問題である

③現時点での廃止は国民世論の理解を得られない

 

①と③は大変似通っているが、①は「よって変える必要はない」という、③は「よって変えることが出来ない」というニュアンスをそれぞれ含んでいる。つまり国民の意思は検討すべきかどうかの基準であり、決定の基準ではないという点においては②と③が共通している。①の場合、不検討は現行制度維持に直接繋がる。

後藤田氏の発言は③に該当し、世論は存廃の基準ではなく、存廃の議論をしなければいけないかどうかの基準に過ぎないという考えがその底にあるのではないか。

上に引用した後藤田氏の答弁は、決裁の必要については法制度のみを根拠として挙げており、後半の世論についての発言は以下に繋がる:「制度論としては考えなければいけない大きな課題であることは事実だけれども、(世論を考慮すると)今これを取り上げて死刑制度を廃止するという時期には私は日本はまだ来ていないのではないかなと(考える)」これは③にあたり、彼が混同させてはならないとする個人的な信条が、彼自身においては死刑廃止に向かっていたのではないかと思わせさえする。

 

法務大臣たちの信条がどうであれ、結局は刑法475条が彼らから自主的な判断の権利を奪っている。法務大臣に指名される人たちには、法の専門家も多いが、自身の決裁不履行に法的根拠を挙げた者はいない。廃止派が法的根拠を挙げた例としては、第二項の形骸化と刑事法制に関する企画立案を指摘するものがある。この意見も一方で第二項は訓示規定に過ぎないから義務ではないとしながら、他方では任務の一つである、刑事法制を企画立案すること、さらには企画検討中は執行を停止することまでを義務としており、論理的一貫性に欠ける。後者については法務省の任務であり、それこそ大臣一個人の意向で決まることではない。

 

これは2010年7月28日の執行抗議集会での弁護士・安田好弘氏の発言であり、千葉氏決裁による執行、またその記者会見での「執行は義務である」とする千葉氏の発言に対しての批判である。多方面から批判の多い千葉氏だが、これほど真剣に死刑問題と向き合った法務大臣は他に居るだろうか。廃止論を貫くというあり方も一つの道であったとは、本人も発言していることであるが、「それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起こって行く、というのも感じ」ることを、決裁に及んだことの説明に挙げている。個々人の生死に関わる問題を存廃対立の戦略として捉えることは不調和かもしれないが、全体的な廃止の流れで捉えれば有効な論拠である。廃止論を公言する法務大臣が、それを「貫いた」例は過去に見られる訳だが、それが全体的な流れの中で何をもたらしたかというと、在任期間に限る死刑囚の一時的な延命に過ぎない。執行派の法務大臣に交替することで執行は再開されるだけでなく、全体としては法務大臣としての義務を果たすべきという論調が強まるという逆の結果を呼んでいる。杉浦氏後任の2名に関しては突如二桁の執行をしており、前任期間への反動とさえ思わせる。こういった足踏み状態を千葉氏は「その時の法相がやった、やらない、という問題になってしまっている」と表現する。

その流れを変える目的で信条に反して法に従った千葉氏の決断は、死刑存置法務大臣の正当化された私人としての思想の持ち込みに目を向けさせるものですらある。

 

そして、その執行に立ち会う。

 

廃止論者の千葉氏が決裁を行ったということに関しての批判の多さに比べて、この立ち会いについて、立ち会うことの意味については、あまり取り上げられていないように思う。我々現代人にとって絞首刑の立ち会いというのは大変に恐ろしいことであり、それでもそれを決断した千葉氏の、決裁自体の苦しさを思わせるものである。千葉氏が立ち会ったことによって、その他の法務大臣が誰1人として立ち会ったことがないという事実が広く伝えられたことも一つの効果だが、そのことの意味をもう一度考えてみたい。無人機による攻撃や、都市生活者の肉食などにもいえることだが、我々現代人が死に関わる何かを決断するときに、死はあまりにも遠いところにある。既に複数人の手を渡ってきた書類の決定事項にサインをすることは簡単であるが、それが何を意味するかを意識的に行ったという証が、立ち会うということである。この対極として、また鳩山氏の言動が思い起こされるが、千葉氏ほど決裁することの意味と真正面から向き合った法務大臣は他にいない。

 

法務大臣とはいえ、個人の思想を反映させる事は出来ない。既存の刑法を変えることを許すのは大多数の民意しかない。法務大臣たちが繰り返し強調したのは、国民世論が廃止を希望していないという点だ。その国民世論を変える為に、まずは議論の活発化を目指したのが、千葉氏最大の功績であると言えるだろう。その根底には、熟考すれば、きっと死刑廃止論に辿り着く、という人間性への信頼がある。

我々はこの期待に応えてきただろうか。千葉氏退官から5年近くが経とうとしているが、国民の間で議論は活発になっただろうか。廃止論が小さすぎて議論の必要が減ってきているのではないだろうか。死刑制度に関する世論調査の回収率が年々下がっているというのは、若い世代の無関心を示していないだろうか。

 

法治国家である以上、法務大臣1人の裁量で、確定した刑の執行を停止させるべきではないというのが、大臣の決裁を義務と見る場合の論拠になっている。しかしここで、その法について、もう一度基本的な所に、権力分立の意義に、立ち返ってみよう。裁判官が慎重に慎重を重ねて確定した刑だというが、それでは、なぜ法務大臣のサインを必要とするのか。

ここに475条を制定した先人の知恵がないだろうか。時代の変化により死刑が廃止されるべき時に、行政が止めることが出来る。検察の不正が疑われるときに、裁判員が理性より感情を優先したときに、被告が精神上の理由で再審請求できないときに、世界の倫理観が日本に死刑の停止を求めるときに、法務大臣は執行を停止する権限を与えられているのだ。

 

 

・・・・・・

 

次に、死刑制度に関する内閣府世論調査についてですが、やはり気になるのが経年変化です。戦争経験者が回答者であったはずの1956年調査に比べても、廃止論者は減り、存置論者は増加しています。240万人とも300万人以上ともいわれる多数の国民が死亡した戦争を経験した人たちの間で、現代よりも死刑廃止の傾向が強かったのです。あるいは殺すことを、殺されることを、個人の生死を左右する国家権力の強大さを、知っていた世代だからこその回答結果なのでしょうか。

 

・・・・・・

 

〈2〉

 

〈世論調査の有効性について、日本弁護士連盟の意見書〉

1.質問内容が誘導的である

2.追加項目として終身刑の導入を条件とした場合の調査すべきである。

3.回収率の低さ・偏り

4.マイクロデータの公開

 

〈各項目に対する私見〉

3.改善が望ましいが経年変化から単純推測すると、回収率の低い20代男性の回答は死刑制度支持の割合を強める可能性がある。

4.経年変化の原因解析に欠かせない情報である。開示が望ましい。

1.死刑制度の存廃を問う質問(以下、第一質問と呼ぶ)において、廃止に対してはどのような場合でもという強い表現を、存置にたいしては場合によってはやむを得ないという柔らかい表現を付け足す事によって、回答者が存置を選び易くしているという批判だが、この点に関しては、死刑判決が極端に悪質で重大な犯罪に対して稀に下されるものであることを考慮すれば適当である。質問の設定変更があった1994年に顕著な数値の変更はなく、むしろ緩やかな線を描いて一定の変化を示している。よって、偶然1994年に世論に変化があったと考えない限り、質問内容の変更が回答者に与えた影響は見られない。 

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※世論調査の結果数値を元に作成、89年以前はデータの採取年が不定期(以下2点の図も同様)

 

この理解しがたい傾向を、調査のあり方に疑うのは全く共感できるが、単純に存置論者が増えていると考えざるを得ない。むしろ、なぜこういった傾向を示しているのか理解できない事が問題であり、取り組まなければいけない課題である。

弁護士連盟の資料にあるように「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか、反対ですか」という質問に40年前は5人に1人が賛成と答えていたのである。

 

2.死刑存置論者の一部は、無期懲役刑が場合によっては将来的な釈放の可能性を含むことを考慮した上で、現時点での廃止に反対しているため、下位質問として例えば終身刑の導入などを訊ねることを提案するものである。

終身刑導入の可能性に関しては、存置論者への下位質問「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」の項目が内包しているように思われる。この質問こそ、曖昧模糊としているが、状況が変わればとは何のことであろうか。凶悪犯罪の可能性が一切無くなるということは非現実的である。現在死刑存置を希望している人が将来的に廃止してもよい状況の変化として考えうるものは終身刑の導入に尽きないだろうか。ちなみにこの追加質問は、質問設定変更の1994年に判然とした変化が見られ、弁護士連盟が第一質問の内容の誘導性を裏付ける数値として挙げているものである。 

ここで、参考に、条件付きで廃止をしてもよいとするグループを、「場合によっては廃止もやむを得ない」とし、廃止論者の方へ移動させ、将来も存続とするグループのみを「どんな場合でも存続するべきだ」とする存置論者へと、質問設定を逆誘導的に入れ替えた場合の回答率を図に示してみる。

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上に述べたように、第一質問に着いては、94年の影響が目立たない。しかしこの下位項目を考慮すると94年の変化は一目瞭然である。これを説明するには、もう一つの変更事項、この下位項目自体に「状況が変われば」が追加されたことが、変化の影響と考えることが自然である。89年までの言い回しは、「将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか。それともだんだん死刑を少なくしていって、いずれは廃止してもよいと思いますか。」となっており、段階的削減を経た廃止の是非を問うている。条件のない漸次廃止を示せば、漸次削減は廃止という目的の為と考えるのが自然で、これは第一質問で廃止反対を選んだ人への問いとしては不適切である。Bを選べば自己矛盾に陥る質問を多数の人がAと答えるのは当然である。

次に94年以降の質問内容だが、現在存置を希望しているが将来的には廃止してもよいとするなら、状況の変化は前提とされるはずだ。そしてその念頭にあるものとして終身刑の導入が推測される。そして、条件付きの廃止をよしとするならば、第一質問では「一概に言えない」を選ぶべきだ。これだけの割合の人がは死刑存置を望んだ上で、条件付きの廃止を選んでいる。これは先述の、第一質問の内容変化が結果に影響を及ばさなかったと仮定した場合の演繹だが、状況の変化を条件とせずに将来的な廃止を許容しつつ、即時廃止は望まない層が存在するといえる。

 

この94年の数値変化を弁護士連盟の意見書は、第一質問の曖昧な表現に妥協を見いだしたグループと分析しているが、私は第一質問で「一概に言えない」を選ばなかったことを重視し、むしろ問題への積極的な参与を望まないグループとしたい。見逃してはならない語法上の違いが2つの質問にはある。第一質問が廃止するべきであったのに対し、ここでは廃止してもよいかを訊ねている。意見書ではこれを「明確な意志」の幅と表現していた。同じことを言い換えるに過ぎないのだが、敢えて強調したい。これは「自主性」の問題である。既に与えられた決定に追従するか、能動的に何かを変えるかの違いである。

そう考えると「状況が変わ」ることに、法的変化ではなく他動的な変化も含まれてくるように思われる。(国民世論の大多数が望むなら)廃止もやむを得ない。(日本以外の全世界が死刑を廃止したら)廃止もやむを得ない。そういう心理状態の現れではないだろうか。もしこれが矛盾回答者の念頭にあった「状況」ならば、日本が死刑存置国として世界的に孤立し、他国に追従するのを待つ方が速いのかもしれない。

以上見てきたように、現在の調査の質問設定では、中間層はその部分毎に存廃双方に組み入れられる可能性を持っている。そこで次に、どんな場合でも廃止すべきとする人の割合と、どんな場合でも存置すべきとする人の比較を以下に示す。 

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これは第2の図を見ても目につくことをより明確に示すだけなのだが、大切な点だと思うので繰り返さなければならない。それでも、廃止論者が圧倒的に少ないのだ。

 

最後に読売新聞が行った調査を引用し、上記の様々な推論の妥当性を検証したい。これが弁護士連盟の提案する質問形式で回答選択を求めているからだ。 

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衆議院調査局法務調査室 死刑制度に関する資料(2008年)、17ページより抜粋

 

この読売新聞の調査から分かることは、現行の内閣府の世論調査の第一質問経の回答において、存置支持の割合は積極的存置論と消極的存置論を合わせた割合に近く、廃止賛成の割合は積極的廃止のみの数値に近い。つまり、意見書の指摘する誘導性は消極的廃止論者を排除しているという限りにおいて正しい。

 

以上、弁護士連盟の意見書を通じて考察される、世論調査に関する事実は以下の2点だ。

①質問設定の変更によって85%の数字は変えることが出来る。

②廃止論者はいずれにせよ少数派である。

 

既存の法律を変える程の影響力を持つのは、どんな場合にも廃止すべきだという、自主的で明確な意志が多数派を形成するようになってからかもしれない。冤罪も表面化し、刑場・死刑囚に関する情報の公開も進み、裁判員制度による死刑も下され、それでも減って行く廃止論者が、多数派を形成する日は一体いつになるであろうか。

 

冒頭で私は、死刑が例外的に下される刑罰であることを理由に、第一質問の設定を問題視しなかった。これは、既存の制度を変更する際の決意の必要からだ。なぜなら、「どちらかといえば」という曖昧な態度は、死刑という重大な問題に不相応であるからだ。「どちらかといえば」ではなくて「条件次第では」とするべきではないか。どちらかを選ばなければいけないなら、どちらかといってAを選ぶなら、一括して「一概にはいえない」を選ばせればよい。こういった中間層は、多数派の意見に追随し易く、たとえ終身刑が導入されようとも、被害者感情を考慮して極刑が望まれる論理は現在と同様なはずである。よって「どんな場合でも廃止すべき」という確信が多数を占めないうちは、終身刑の導入も段階的死刑廃止に繋がらないと私は考える。

 

 

・・・・・・

 

〈感想〉

 

フランスにおける死刑廃止法案審議の議事録が邦訳されたもの。

長いですが、戯曲のような読み応えがありました。

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-250.html

 

このバダンテール氏は来日の際の講演で「死刑を廃止したほとんどすべての民主主義国で、死刑廃止の時点で、世論は死刑の廃止に好意的ではありませんでした」述べたそうです。

これは、政治的権力者が正しい決断をすれば、民意はついてくると言う考え方です。

 

死刑が違憲であるという上告に対する、最高裁判所の合憲判断において、一部裁判官より以下の意見が補足されたそうです。

憲法は、その制定当時における国民感情を反映して、右のような規定を設けたにとどまり、死刑を永久に是認したものとは考えられない。ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は、国民感情によって定まる問題である。しかして、国民感情は、時代とともに変遷することを免れないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることもありうることである」

内容は色々なところで言われているものですが、国民感情という言葉遣いにはっとさせられました。世論世論といわれているものは、感情にむしろ近いのではないでしょうか。議論や研究を経ずに選ばれる結論は、正誤ではなく好き嫌いで判断されます。そして持論を変えさせることには説得を必要としますが、感情は伝染します。勉強会よりも、冤罪死刑囚の悲しいテレビドラマでも流行ったりした方が、世論への影響は大きいのかもしれません。

 

死刑廃止の世界的な傾向についても、今後どのような展開を見せるか分かりません。イギリスの世論調査では廃止から50年経った現在も、一定数の死刑制度支持者が存在する実態が浮かび上がってきました。ドイツの法学部新入生へのアンケートでも、前回調査で死刑制度復活支持者が増加しています。こういった、死刑廃止国における死刑制度支持者の動向やその原因についても、また回を改めて調べてみたいと思います。

 

 

〈1〉関連資料

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO131.html

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO093.html

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/houmu_200806_shikeiseido.pdf/$File/houmu_200806_shikeiseido.pdf

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/2010shikkoh.htm

http://homepage3.nifty.com/tetuh/105.html

http://homepage3.nifty.com/tetuh/104.html

http://homepage3.nifty.com/tetuh/120.html

http://www.geocities.jp/aphros67/050534.htm

http://www.geocities.jp/aphros67/050500.htm

http://www.geocities.jp/aphros67/050500.htm

 

 

〈2〉関連資料

http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-houseido/2-2.html

http://www.moj.go.jp/content/001128770.pdf

http://www.morino-ohisama.jp/blog/2014/05/2044.html

http://www.welt.de/politik/deutschland/article134799279/Warum-jetzt-viele-Deutsche-die-Todesstrafe-fordern.html

http://www.theguardian.com/world/2014/aug/12/less-half-britons-support-reintroduction-death-penalty-survey

https://yougov.co.uk/news/2014/08/13/capital-punishment-50-years-favoured/

 

インドネシアにおけるオーストラリア人の死刑確定、恩赦なし

 

 

今週は月曜日のニュース、インドネシアのオーストラリア人死刑囚について、古い事件なので振り返りつつ、死刑について少し考えたいと思います。薬物犯罪に関わったり、巻き込まれたりして、海外で自国とは異なる刑罰を受ける人のニュースはそれほど珍しくないですが、死刑囚たちと自分の年齢が近いこともあり、特に気になりました。2005年の逮捕から今日までを、自分自身の2005年から2015年の歳月と重ね合わせると、また、今この瞬間に執行を待っている死刑囚に思いを馳せると、色々と感じるところがあります。

 

死刑については、大きい問題ですので、また別の週でも取り上げたいと思っています。今週の裁判から見えてくる一番の問題は、死刑廃止国と死刑存置国の間の決定的な価値観の違いだと思います。犯罪行為があったこと自体は認めていますから、インドネシアの法律で死刑というのも、当然と言えば当然の結果です。

多くのオーストラリア人にとって受け入れがたいのはは、その犯罪行為によって死刑に処されるということであって、これはオーストラリアに限らず、殆どの先進国が共有している、死刑は非人道的であるという価値観によるものです。

日本は様々な面において西欧諸国と価値観を共有していますが、死刑に関してはまだ存置しておりますし、国民の死刑制度への支持率も高いようです。しかし日本の死刑支持者も殺人以外の犯罪での死刑というのは考えられないのではないでしょうか。

 

国が異なると犯罪や裁き方、処刑方法と、様々な違いがあります。我々が自国と異なる他国の法制度を驚きを持ってみる感覚で、日本の死刑も受け取られています。今週は少し話題がそれますが、日本における死刑制度についての記事・資料を取り上げ、テーマとしたいと思います。死刑廃止国の目に、日本の死刑制度はどう映っているのかを少し紹介し、死刑制度について考えるきっかけになればと思います。

 

 

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インドネシアで2005年に薬物密輸で逮捕されたオーストラリア人の死刑が、法的に回避不可能になる。

 

昨年12月にウィドド大統領が恩赦を拒否、これに対し弁護士は理由説明もない包括的恩赦拒否は不当として抗告した。今年2月の裁判では、大統領の拒否決定は、裁判所の権限内ではない為審議できないとし、要求は却下された。裁判所のこの決定に対し弁護士は上訴するも、今回の裁判でも、大統領の裁量に関して裁判所は審議する術を持たないとし、改めて却下された。

 

弁護士は国内人権団体と共に最高裁判所の審議まで持ち込む構えだが、司法長官は、法的な可能性はこれをもって全て試されたとし、この二名に関しては確定事案であり、今回の決定の変更も、諸裁判によるこれ以上の執行延期もないと話している。

 

今年1月には、国際的非難も虚しく違法薬物関連の犯罪で5名の外国人(ブラジル・オランダ・ナイジェリア・マラウイベトナム)と1名のインドネシア人が銃殺刑に処されている。オランダ、ブラジルは公使の召還で抗議を示した。

オーストラリア政府は大統領に直接働きかけ何とか恩赦を引き出そうとするも、対するインドネシアは、海外からの圧力に法が屈してはならないと、インドネシアにおいて薬物犯罪が厳しく罰せられることは知られていることだと主張する。

国連事務総長オーストリア連邦首相など海外のみならず、国内人権団体から大統領の内輪の人物に至るまで、死刑取り消しを求める声がある。一方で、大統領の強硬な違法薬物対策は、国内有権者からは支持を得ている。

 

オーストラリア人死刑囚の恩赦拒否から一ヶ月後には、強盗殺人者やテロ計画の被告人などに恩赦が出された。同じく薬物犯罪で死刑判決を受けたナイジェリア人の弁護士曰く、大統領は違法薬物犯罪に関しては内容を考慮せずに恩赦拒否をしている上、出所も明確ではない一日40~50人の死者というデータが有効かどうかも不明とのこと。

 

今月19日から月末にかけて60周年のアジア・アフリカ会議を迎えるインドネシアは、会議開催期間の処刑は避けたいものの、これ以上の延期はないと司法長官は話す。

 

 

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〈バリ・ナイン事件〉

 

2005年4月、8.3kgのヘロインを体に巻き付け、バリ発シドニー行きの便でチェックインしようとした若者4名及び、そのグループが逮捕される。実行犯の若者が9名であったことからバリ・ナインの略称で呼ばれる。(因みに8.3kgという量は、洗練されたシンジケートの存在を示しており、逮捕された9名は運び屋の若者にすぎない。)

 

9名のうち、リーダー格の2名、アンドリュー・チャン(31)とミュラン・スクマラン(33)は死刑(判決2006年)、1名は20年、残る7名は終身刑で服役中だ。

インドネシアへの渡航前に、9名の内の1人の父親が通報、息子の渡航を防ぐよう要請した。オーストラリア連邦警察がインドネシア警察に写真を含む情報を提供、9名は滞在中監視下にあった。インドネシアで薬物犯罪が死刑を伴う重罰に科されることを知った上で計画を続行させ、インドネシアでの逮捕に繋がった事が、批判の対象にもなったが、連邦警察は警察機構の手続きとして妥当であると反論した。2名は当初は否認していたものの、2010年に自供して以降、後悔を表明している。

 

 

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以上、オーストラリア人死刑囚の現状と、彼らの関わった事件について簡潔に述べたが、この件に関して論点は以下に分けて考える事が出来る。

 

批判者の立場として考えうるのは

1.死刑制度そのもの

2.犯した罪の重さと、刑の重さの釣り合い

3.恩赦の基準

4.加害者は更生し、再犯の恐れがない

 

一方で、これはオーストラリア人の中でも見られる意見だが、既存の法律で薬物犯罪が重罪である事は明白であり、その上で行為に及んだ以上やむを得ない、というものがある。これはインドネシア政府としても発言している事で、内容自体は正当であるが、この論理を死刑の根拠として挙げる場合、薬物の被害者の多さを同時に挙げる事は出来ない。なぜなら政府の言う40~50人の薬物による死者にも、同じ論理で自らの責任を問えるからだ。販売経路の遮断も重要だが、薬物汚染の拡大は、貧困や失業率などとの関連で捉える事が出来る。

 

インドネシアは2008年に死刑執行を停止しており、2013年より再開したもののそれ以降実質的な執行はなかった。現在拘置されている死刑囚は130人以上おり、その内57名が薬物犯罪者で、その3分の1が外国人だ。2004~2014の10年間では64名が薬物犯罪で死刑判決を受けている。

現政権は薬物汚染との徹底した闘いを目指しており、当局は薬物による死者が毎日40~50人にのぼることを、薬物犯罪の死刑適用の根拠とする。人口2億5000万人のインドネシアには、約450万人の薬物中毒者が居ると言われている。処刑方法は銃殺、10名の執行人が5~10mの距離から心臓を狙い撃つ、10のライフルの内、実弾が装填されているのは2丁で残る8丁は空砲である。執行の72時間前に処刑実行について伝えられる。

今後もフランス、ブラジル、ナイジェリア、ガーナ、フィリピンの死刑囚が処刑される予定であり、フランスやブラジルなどの政府も受刑者救出の努力をしている。

 

1~4.全ての点に共通しているのは、代替案として想定されているのが釈放ではなく終身刑への引き下げということである。ということは、結局は死刑そのものが問題の根底にある訳で、ここで両名の境遇を死刑存廃問題に照らし合わせて検証してみたい。

 

死刑反対論者の挙げる問題点には、

①人権に反する

②冤罪の場合取り返しがつかない

③犯罪への抑止力がない

④しばしば閉鎖的で不明瞭であり、歪んだ司法制度の下にあることも多い 

⑤差別的 貧困層やマイノリティに死刑判決を受ける人が多い(高価な司法取引が減刑をもたらす事も理由の一つ)

⑥政治的目的に利用される

がある。

 

自供し、優秀な弁護士を持つ、チャンとスクマランに関しては、恩赦の基準について④、他は①のみが該当する。(二人は人種的マイノリティであり、バリ・ナインの残りの7名も貧困層出身者やマイノリティばかりだが、これは犯罪率との関わりで論じられるべき問題であり、死刑廃止の文脈で語られる場合はアメリカの高報酬弁護士などの事を指していると思われる。)

③抑止力については、データが取りづらい事もあり一概には言えないが、今回のように大きくメディアで取り上げられている事件に関しては、おそらく何らかの影響が抑止力として働くものと思われる。しかしチャンは若者の薬物犯罪防止のための映像媒体に出演したり、スクマランは絵画によって心情を表現したりしており、死刑執行がなくてもそういった貢献をし続ける事が出来る。

 

一方、在置論者の観点としては、

①犯罪抑止力

②(同一犯による)再犯防止

③被害者遺族の感情に考慮

がある

 

殺人のように直接的な被害者がおらず、死刑回避の場合は終身刑が可能性として残る為、これらの点のうち二人に該当するのは①である。上にも書いた通り抑止力に関しては調査が難しく両論ある。どちらとも言い切りがたい問題を限定的な言い回しで逃れれば、抑止力としての影響が全くないとは考えづらい。しかし例えばバリナインは厳刑が抑止力として働かなかった一例である。そして上に述べたように代替案として生かして反薬物宣伝に利用するという方法がある。

しかし、メディアで大きく取り上げられている外国人だからという理由で、例外的な対応をした場合、既に処刑された同罪の元死刑囚との間に不公平が生まれる。結局は世論の流れを伴う緩やかな変化しかあり得ないのかもしれない。

 

 

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チャンとスクマランの両死刑囚について調べていて気になるのは、メディアへの露出度といい、刑務所内の様子を写した写真といい、比較的待遇が良さそうだという点だ。処刑の方法や処刑までの手続きについても、インドネシアの死刑は日本の死刑より人権に配慮していように思われる。

ここから少し方向転換をして、日本での死刑制度について見ていきたい。

 

 

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刑法に規定される死刑適用の犯罪は、日本国への武力行使協力、殺人、強盗殺人、死亡者を伴う爆発物テロなどである。その中でも、死刑の適用を判断する際には、特に被害者の人数や、執拗性・残虐性、遺族の被害感情などが考慮される。尚、犯行時18歳未満は死刑適用外、妊婦と精神病患者は出産又は治癒まで延期可能である。

 

以上が日本における死刑の基本的な情報だが、死刑存置国の市民としてはこれらの定義に特に違和感はない。最も犯しがたい人の権利である生命を奪う犯罪のなかでも、特に悪質な場合に稀に出される刑罰であり、やむを得ないという印象を受ける人が多いというのも当然である。法律や社会規範というのは、変更された時や知らなかった場合に、驚きを持って受け入れられるのであって、既存・旧知のものに関してはそういうものだという印象を受けるものである。このような、「そういうものであるもの」は、そういうものでない視点に立たないと、問題視する事が難しい。そういうものでない視点の一例として、ここで、日本の死刑制度はどう映るのか、死刑制度の中でどの部分が興味の対象なのか、ドイツの新聞記事や、欧州評議会の決議、人権団体の声明など、複数の資料より部分を抜粋の上、以下にまとめた。

 

日本では、死刑囚は執行日の朝に処刑について知らされる。絞首台へ向かうまでたった数時間、場合によっては数分間になる事もある。自身の最後の食事と僧侶との祈りが終わると床の開く部屋で縄を首にかけられる。血縁者や弁護士は事後に連絡を受け、執行前の面会はない。目下(2014年12月)128人の死刑囚(内6名は外国籍)が居る。死刑になるのは普通は、少なくとも二人以上の殺人を犯した場合だが、数年来、被害者一名の殺人事件で死刑が適用される例もある。死刑判決から執行までは一年未満~50年近くと様々だが、平均で6年、いつ来るかも分からない執行の時を待つことになる。処刑そのもの全ては反対に値するが、人権を尊重する事を約束する欧州評議会のオブザーバー国でそれが行われている事は、特に問題である。「死刑の順番待ち現象」で知られる精神的苦痛を悪化させるような死刑囚監房の諸条件も人権に反する。

死刑廃止論者である事を公言した法務大臣の1人である千葉氏は、2009年の就任以降、刑場の公開や勉強会の立ち上げなどに尽力した。執行の署名も行わないでいたが、2010年、突如二死刑囚の執行に署名、しかも立ち会った。この千葉氏の時期から2011年ぐらいまでは確実に死刑廃止へと繋がりうる流れがあった。しかし非公式のモラトリウムもいつの間にか途絶え、自民党政権に交替してからは谷垣法務大臣就任期だけで二桁の執行を行っている。公的に死刑廃止論者を自称していた法務大臣の在任期間というチャンスを逃し、実質的モラトリウムは突如終了し、秘密裏且つ残虐な死刑執行が再開したことは大変な失望に値する。裁判員制度の導入は、死刑の残虐性と誤りを犯しうる可能性について一般市民の意識を高め、これが最終的に廃止へと向かう事を期待する。

世界140カ国は既に死刑を廃止している。死刑制度自体は残る国でも実際は執行されない場合が多く、2014年に死刑執行をしたのは22カ国にすぎない。死刑の執行をする国は過去20年間で半減しており、世界的に廃止の方向にあると言える。その20年間に日本では約100名の死刑囚が処刑された。日本は、経済発展の進んだ民主国家としては例外的に、時代に逆流する流れを見せる。

 

こうして見てみると、死刑そのものが批判の対象となっているが、頻繁につきまとうのは先進国でありながらという関連付けである。このことは世界全体が、文明の進歩とともに死刑廃止の方向へ向かっているという前提を示している。全世界的な傾向として恐らくこれは間違ってはいないのだが、同時に死刑存置国である日本が倫理的に未発達であるとは思わない。その根拠として、ここで少し個人的な見解を付け足したいと思う。

 

西欧文化圏の視点から、日本が死刑制度を存置している事が理解されない時、これは西洋的社会を取り入れた日本人を西洋的価値観を持つ市民として捉えている事に由来する。日本人の大多数が死刑制度を肯定する時、死刑反対のあるヨーロッパ人と異なるのは、対象となる死刑囚の権利についてよりも、死生観や自由の定義についてではないだろうか。死刑存置国を世界地図上で眺めていると、それは経済発展度でも宗教分布でもなく、文化圏分布図に似る。西アジア、南アジア、東アジアにおいて死刑が採用されているからである。中東イスラム圏ではイスラム法の適用と関連があると思われるが、北アフリカ東南アジアなどは死刑廃止国も多く、イスラム教圏とは一概に重ならない。南アジア、東アジアに関しては様々な宗教的背景があり、信仰の度合いも異なるが、共通して存置国が多い。進歩的な民主主義国においても死刑制度への国民支持が高いのは、台湾やシンガポールなども同じであり、日本に限らない東アジア全体の傾向だ。

身近な東アジア文化圏に関して想像するところでは、因果応報の考え、及び儒教的上下関係の明確さというものが思い浮かぶ。既存のものや状況に従う「そういうもの」的思考によって、批判的思考が曖昧になり易いからではないだろうか。「そういうもの」的思考は、自己の権利にも及び、日本の例では職場に対する滅私奉公的な労働のあり方などもこれに由来するが、これもまたヨーロッパ人の理解を得られない問題の一つである。

 

 

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〈感想〉

 

政府の調査によると約85%が制度を支持しているとのこと、質問が誘導的と言う死刑廃止論者の批判もあるようですが、身近な人に訊いてみた印象では、85%という数字はまあ妥当かと思います。個人的に訊ねてみた数少ない例で感想を言わせていただくならば、論拠に多いのは、死刑は望ましくないが、人を殺めるという事はそれだけの事をしたということ、被害者の人としての権利を奪った加害者の権利を尊重する必要があるのか、犯罪者の余生を国民の税金で養うべきか、などと、やはり世論調査の項目にあるものが多いです。そういう訳で、この世論調査の質問設定について問題は感じませんが、結果についてどんなに考えても不思議なのが、経年比較の項です。過去50年間に存続賛成者は年々増加し、廃止希望者は年々減少しています。この50年間に凶悪殺人が増えた訳でもありません。本当に世界的な流れと逆流しています。この理由について、回を改めてまた考えてみたいと思います。

 

繰り返しになりますが、抑止力については大変難しい問題だと思います。抑止力が全くないとは考えられませんが、終身刑(日本では無期懲役)と比べて、抑止力の差がどれほどあるかという問題があります。そしてより大きな問題が、近年通り魔事件などに見られる「死刑になりたかった」という動機の犯行です。この場合、死刑は抑止力どころかその真逆の効果を生んでしまっています。こういった犯罪者には、どのような刑を与えるべきなのか、というのは倫理的に大変難しい問題です。同様に、逮捕されたかった、と動機を述べる高齢の軽犯罪者なども散見されます。

こういった逮捕者が増えないようにする為には、高齢貧困層への援助、労働条件の改善、公営の老人ホームを増やす事、などが考えられますが、超高齢化社会において国がどこまで負担できるのか、簡単な事ではありません。

そもそも禁固・懲役刑の発想は、自由という権利の剥奪というところにありますが、刑務所の外で生きる我々の生活に、失いたくない程の自由があまり残っていないのかもしれません。

 

上に一部引用した、欧州評議会の1253決議に、死刑制度への世論の高い支持というのは、変えるべきであり、また変えることができる、これはヨーロッパの経験が示している、とあります。死刑制度があるべきものとしてある、その中で我々は批判的な見方をもつ機会を奪われてはいないでしょうか。今回のオーストラリア人死刑囚のようなケースは、死刑について、国家権力が一市民の死を決定する事について、疑問を投げかけます。これは我々にとって普通になっている価値観への疑問であり、既に決まっていることに慣れる事への問いかけです。

 

そもそもの注目の記事からテーマがだいぶ逸れました。

死刑について、犯罪と刑罰について、国家の権限について、それぞれに独自な個別の犯罪を裁く為の包括的な法制度について、考えれば考える程分からなくなる事ばかりです。

それでも、死刑囚たちのルポタージュなどを読んでいると、1人の個人としての姿が浮かんできて、やはり死刑も殺人には違いないと感じます。以下のリンクはそのようなルポタージュです。長めの英文ですが、興味とお時間のある方にはお勧めです。

 

「その報いは死」

https://www.themonthly.com.au/issue/2008/september/1289779129/luke-davies/penalty-death

 

お時間のない人は短いビデオ(英語)

「私の弟アンディ」

https://www.youtube.com/watch?v=5qVii_8vW2Y

 

 

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参考記事

 

今週

http://www.spiegel.de/panorama/justiz/indonesien-gericht-lehnt-begnadigung-von-australiern-ab-a-1027192.html

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-04/indonesien-australier-todeskandidaten-drogenschmuggel

http://www.theaustralian.com.au/national-affairs/foreign-affairs/bali-9-bad-look-to-kill-pair-during-talks-indonesia-attorney-general/story-fn59nm2j-1227294833648

http://www.faz.net/aktuell/politik/ausland/asien/indonesien-weist-berufung-von-australischen-todeskandidaten-zurueck-13523762.html

http://www.spiegel.de/panorama/justiz/indonesien-gericht-lehnt-begnadigung-von-australiern-ab-a-1027192.html

http://www.bbc.com/news/world-asia-32193992

http://www.sueddeutsche.de/politik/todesstrafe-in-indonesien-keine-gnade-fuer-verurteilte-australier-1.2423244

http://www.thejakartapost.com/news/2015/04/07/two-further-appeals-executions.html

http://www.thejakartapost.com/news/2015/01/20/ri-resolute-death-policy.html

 

バリ・ナインその他参考記事

http://www.theguardian.com/world/2015/mar/30/bali-nine-law-expert-supports-appeal-for-pair-in-indonesian-administrative-court

http://www.theguardian.com/world/2015/apr/06/bali-nine-andrew-chan-myuran-sukumaran-appeal-verdict

http://www.theaustralian.com.au/news/world/australian-death-row-pair-andrew-chan-and-myuran-sukumaran-finally-admit-bali-nine-role/story-e6frg6so-1225904974203

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-01/drogenhandel-indonesien-hinrichtung-auslaender

http://www.news.com.au/world/asia/indonesias-president-has-granted-mercy-to-a-double-murderer-reducing-his-sentence-from-death-to-life/story-fnh81fz8-1227262734944

http://www.theguardian.com/world/2015/mar/04/how-indonesia-carries-out-the-death-penalty-rules-of-execution

http://www.welt.de/vermischtes/article137543394/Todeskandidaten-duerfen-Abschied-von-Familie-nehmen.html

http://www.thejakartapost.com/news/2015/01/20/ri-resolute-death-policy.html

http://www.thejakartapost.com/news/2015/01/23/commentary-capital-punishment-and-public-opinion.html

 

日本の死刑制度参考記事・サイト

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2013-04/japan-todesstrafe

http://www.welt.de/politik/ausland/article122873421/Bei-Hinrichtungen-macht-Japan-kurzen-Prozess.html

http://www.faz.net/aktuell/politik/ausland/asien/todesstrafe-warum-asiens-vorzeigestaaten-menschen-toeten-12984217.html

http://www.amnesty-todesstrafe.de/files/reader_todesstrafe-in-japan.pdf

https://www.amnesty.org/en/documents/act50/0001/2015/en/

http://assembly.coe.int/nw/xml/XRef/Xref-XML2HTML-en.asp?fileid=16922&lang=en

http://assembly.coe.int/nw/xml/XRef/Xref-XML2HTML-en.asp?fileid=17986&lang=EN

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00224504-20130628-0021.pdf?file_id=77290

http://www.moj.go.jp/content/000053166.pdf

http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-houseido/2-2.html

http://www.moj.go.jp/content/000053168.pdf

http://www.moj.go.jp/content/000053165.pdf

 

 

ジャーマンウィングス4U-9525墜落事故:報道のあり方について

 

 

このブログは、ドイツの主要紙を主な参考元にしていますが、先週のトップニュースであったジャーマンウィングスの墜落事故をテーマにしませんでした。その理由の一つは、事故の究明が進んでいないこと、もう一つは日本で既に大きく報道されていることです。

 

イエメンについても日本の全国紙などで取り上げられていましたが、やはり日本メディアの一般的な傾向として、世界情勢に関するニュースの取り扱い方が小さいと思います。

最近で、それを強く感じたのはイスラム国による邦人殺害事件の時で、一通りの報道が終わった後、どこを掘り下げるかと言うと、被害者のプライバシーに関わる領域に向かったりなどして、とても近視的な視点で報道されていると思いました。あのような事件があったときには、それを機会に、その背景こそが詳しく紹介されるべきであり、そういう広い視点での世界情勢こそが事件そのものよりも繰り返し報道されるべきだと思います。

とはいえ、背景と言っても、容疑者の何らかの属性を犯罪行為と短絡的に結びつける報道のあり方は、大変危険です。この例としては佐世保の高校1年生殺人事件が挙げられます。

 

そういう訳で、今週は事故そのものについてよりも、それにまつわる報道のあり方について考えてみたいと思います。

 

過熱報道に関しては、日本に限ったことではなく、ここドイツでも連日ジャーマンウィングス9525墜落事故に関して、様々な未確認情報や憶測が飛び交いました。

その可能性が高いという理由で、フランス当局が早急に容疑者を仮定したことも一因になったと思いますが、捜査段階では公表されない容疑者の名字や写真もかなり早い段階で大衆紙の一面を飾りました。(ドイツでは未成年犯罪や未確定の容疑者は、下の名前と名字のイニシャルで報道されることが慣例的。日本ほど下の名前が多様ではないこともありますが、家族親戚・偶然同じ名字の他人を守る為の良い方法だと思います。)

そしてボイスレコーダーの内容は、検察当局の会見前にメディアに流出しました。※1

 

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しかし一週間が経過し、出来事の衝撃が消化されてくると、一部読者から、報道のあり方に疑問を呈する意見が出てくるようになり、主要メディアではそれらに対応する記事が見られました。

 

4月2日には副操縦士のインターネット検索履歴に関する情報、3日には、飛行記録の解析結果が発表され、副操縦士への疑惑を裏付けるものとなっています。報道のあり方に関する以下の引用記事はそれ以前のものですが、疑惑が結果的に正しかったとして、早急な報道に問題があることに変わりはありません。

 

「誰もがメディア評論家」(部分・要約)

http://www.faz.net/aktuell/feuilleton/medien/germanwings-absturz-jeder-ist-ein-medienkritiker-13511170.html

報道過熱を煽動するのも批判するのもインターネット上であり、その双方が、今回の事件で今までにない程にまた加熱している。

こういったメディア批判にある報道編集者は「犠牲者を悼む為に視聴者が必要としている情報を提供し続ける」と話し、別のあるメディア関係者は「ツイッター上の生メディア批判も、追悼代理の一つだって思う」とツイートする。

 

「常時放送中」(部分・要約、括弧内は訳者註)

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2015-03/medien-berichterstattung-germanwings-flugzeugabsturz

Live-Ticker系のニュース(サッカーの試合などに使われる時系列に出来事を箇条書きに追加して行く方法)では、大切な情報とそうでないものの境界線が曖昧になってしまう。位置付けも整理も説明もなく情報が羅列される。これはツイッターフェイスブックの思考方法だが、今回の大事件ではこういった混乱が大衆紙だけではなく全国紙や公共放送局にまで見られた。各テレビ局は特番を組み、その放送時間を埋める為に、何があったと考えうるかについて専門家の話を聞くなどした。

 

「覗き見としてのメディア」(部分・要約)

http://www.fr-online.de/leitartikel/absturz-germanwings-4u9525-medien-als-voyeure,29607566,30236278.html

どこまでが報道の義務で、どこからセンセーション欲と覗き見メディアになるのか、その線引きは難しい。報道関係者もが感情的にならざるを得ない今回のような事案では、硬派とされる媒体までもが、いわゆる大衆紙の後を追ってしまった。今日の時点で我々が手にしているのは、いくらそれが道理に適っていようとも、疑惑に過ぎない。他社との競争や売上げという圧力があっても、メディアが民主的社会のプロフェッショナルな介在者としての責任を果たすことで、不信や信憑性消失を乗り越えることが出来る。

 

 

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これらの記事からポイントをまとめると:

1.速度重視報道の加熱は、ソーシャルメディアの普及と関連している

2.メディア、特に正統な全国紙・公共放送は、読者の情報要求の波に流された

の2点に絞れるかと思います。

 

メディアが写真やフルネームの公開を自制したところで、そういった情報はインターネットに溢れ出します。報道関係者に報道倫理を守る義務があるならば、一般人の投稿も規制するべきでしょうが、そもそも規制しきれるのでしょうか。良心的な自粛を行ったメディアは、社会的に評価されたとして、その評価はどういう形で帰ってくるのでしょうか。

 

ソーシャルメディアの普及によって、情報は量的にも速度においても、大変な増加をした訳ですが、一番の影響は、それに伴い私たち人間のあり方がどう変化したかではないでしょうか。

フェイスブックツイッターなどでは、誰かの昼ご飯メニューから、独り言、それに答える独り言まで、本当に知りたい訳ではないかもしれない情報が交換されます。友達としてリンクされているよく知らない人の発信も、親友の発信も同等に時系列で表示されます。自分にとって比較的大切な人が比較的大切な情報を発信しても、その発信がそういう場での書き込みであったことによって、その発信内容は軽くなります。これらコミュニケーション方法の使用が常習化している場合、「知りたい情報」と「どうでもいい情報」の選択をする作業が必要なくなってきます。

 

受け取る側に読み流される情報は、発信する側も垂れ流すようになります。特定の誰かに、何かの目的を持って、ある情報を発信するのではなく、何となく発言することに我々は慣れてきていると思います。読み手にとって興味がないかどうかを検討する必要はありません。なぜなら読みたくない人は受け流せば良いからです。こういった発話態度が、メディアにおいても散見されるのが先週からのドイツの状況です。電子版フランクフルターアルゲマイネはフルネームと写真の公表を釈明するコラムにおいて、フランス当局の発言を根拠とした上で、「誰もニュースを見続けることを強制されていないが、知りたい人も居る、この選択は個人の自由であり、誰にも奪うことは出来ない」としています。※2

 

ツイッターにおいても「ひでぇ」という類いのツイートが大量発信されたのが良い例で、これは誰かに何かの目的で伝えるコミュニケーションとしては機能しません。ドイツ語ではnIchtssagendという丁度いい表現がありますが、発話内容はあまり何も伝えていません。その場合、発話の行為の重点はその内容から、発話すること自体に移行します。つまり「ひでぇ」は、発話者の出来事への参加意思を表します。発言それ自体は、人間として普通の行為であって、ソーシャルネットワークなどなくても、身近な人に「大変な事件だね」と話すことと同じですが、異なるのは読み手になりうる不特定多数の対象の存在です。特定の発話者と受け手の居る、閉じられたコミュニケーションにおいては、話された言葉、発話内容が会話という行為の目的です。これに対し特定の対象を持たない開かれた発話においては、発話者が話すと言う行為そのものが目的化します。

 

この発話主体の突出は、黒いリボンのロゴにもいえることだと思います。シャルリーエブド事件の際は、「私はシャルリー」の標語を皆が張り切って掲げていて異様でしたが、ジャーマンウィングス墜落事故にも黒いリボンに4U-9525のロゴが用意されました。被害者を悼む気持ちは私も同じですから、こういう形での意思表示は理解できますし、それ自体は良いことだと思います。ただ、ワンクリックで賛同できるこういうロゴの普及によって、追悼することが安直になり、また安直であるが故に参加せずには居られない、自己主張の強い共感の波が加速させられると思います。

 

そういう私もソーシャルネットワークに対するモラル・パニックに乗っているではないかと思われるかもしれないので、あらかじめ弁解をしますと、ソーシャルネットワークを批判している訳ではありません。私自身、ここでこうして密かにブログを書いておりますし、インターネット無しには調べ物もままならない現代人です。ではどうやって我々現代人がそういった新しい媒体をうまく使いこなすべきかというと、やはり我々受け手が正規の報道機関には、正規の報道規制を守ってもらいたいという意識を持ち続けることだと思います。

前出の電子版フランクフルターアルゲマイネはフランス当局と仏航空事故調査局BEAの発表を根拠として、副操縦士の犯行と断定していますが、最初の実名報道は26日の14時、この時点でBEAはまだ見解を示していません。もう一つの根拠であるそのフランス当局の発表はそれでも「捜査の前提となる最も濃厚な線」についてでした。実名報道の際にはフランス当局の仮定を引用し、その実名報道に対する釈明では、副操縦士を断罪し実名報道を正当化しています。更にはBEAやフランス当局の権威をその信頼性の担保にしていますが、そのような権威を当の新聞社が持っていることを意識した上で仮定を断定に置き換えて報道しているのでしょうか。

 

 

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モラル・パニックに関して、副操縦士の個人情報以上に気をつけなければない問題が、「鬱病」に関する報道です。

 

シュピーゲル誌の記者が、6年前に航空士養成訓練を休んだことについて「きっと燃え尽き症候群鬱病」という「友人たち」の話をツイートすると、いつの間にか「副操縦士が鬱病を患っていた為に無差別道連れ自殺をした」というニュアンスになり広く伝えられました。この情報拡散はルフトハンザ社の発表より早い時期であり、もう一つ重要な点が6年前の話をしていることです。例えば、副操縦士が通院していた医療機関の一つであるデュッセルドルフ大学病院は、副操縦士の通院は認めたものの、「当院で鬱病の治療を受けていたという報道は正確ではない」と説明しています。※3

 

こういった流れの中で、ドイツ主要紙で最大手であるツァイト紙とフランクフルター・アルゲマイン紙が、それぞれ29日と30日に、鬱病への偏見助長に警鐘を鳴らす記事を掲載しました。良い記事なのでガッツリ引用したいのですが、短い引用に納める為に統計的内容は先に別資料で挙げておきます。

 

ドイツ国内での統計(ランダム・サンプリング)によると、過去12ヶ月に鬱病にかかった成人(18歳から65歳)は、11%(5~600万人相当)。人生において一度は鬱病にかかる人の割合は19%。※4

つまり大体10人に1人が今年鬱病にかかっていて、5人に1人が人生に一度は鬱病になるということです。

 

 

鬱病の人は、他人に苦しみを与えることを望まない」(部分・要約)

http://www.zeit.de/wissen/gesundheit/2015-03/depression-copilot-flugzeugabsturz-stigmatisierung-psychische-erkrankungen

 

副操縦士が患っていたとされる疾患の種類や程度など、その詳細を捜査当局が発表していないにも拘らず、各メディアは「関係者の話」として憶測を大々的に報じ、犯罪行為と結びつけている。

鬱病は喜び・食欲・性欲・やる気・集中力の低下、不眠・疲労など、様々な症状をもたらすが、その中に外に向かう怒りはなく、「私の見てきた患者に、他人を苦しめる願望を持っていた人はまだ居ない」と話すライプツィヒ大学病院精神病院院長は、事件に関する様々な憶測が病気への偏見を高めないことを望む。

(表面化しているだけで)人口の6%がかかる鬱病が危険な存在ではなく、糖尿病や高血圧と同じ国民病であること、航空機墜落事故と鬱病を関連づけて報道するメディア関係者はこのことを肝に銘じるべきである。

 

 

「ー鬱病は殺人者を作り上げないー 我々の心に潜んでいた不安」(部分・要約)

http://www.faz.net/aktuell/feuilleton/depressionen-machen-keinen-massenmoerder-13512760.html

 

何か我々の理解を超えたことが起きた時、我々の最初の反応はこうだ:普通じゃない!そんなことを出来るのは精神病患者か気違いに違いない!しかし我々は、戦争や紛争において、最も凶暴な大量殺人を遂行するのが、いわゆる普通の人だということも知っている。

鬱病の診断を受けた者が顕現期に、航空機やバス、電車を操縦してはいけないというのは、自殺の危険があるからというのが先立つ理由ではなく、反応やコミュニケーションに障害が出る恐れがあるからだ。このことは重度の糖尿病、発作、循環器系の病気や、重大な視覚障害などにも当てはまる。鬱傾向にある人の暴力行為は大変稀であり、ある精神健常者が暴力行為を犯すリスクの高さは鬱病患者の倍だ。

埋もれていた不安を呼び覚ます今回の航空機事故のような出来事を通じて、偏見をもって自分と違う人に対峙するようになるのではなく、これを機会に、物事よりよく理解し、客観的になることが求められるべきだ。

 

同様の警鐘を鳴らす日本語のブログもありました。

「【ドイツ航空機事故原因】副操縦士のうつ病報道で危惧される偏見」

http://taijinkyofu.com/deusche-flight-2355

 

 

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言うまでもないことですが、過熱報道は元をたどれば我々の知りたいという欲求に行きつきます。今回の事件に関しては、大衆の知りたいという欲望の大きさと、その時点で明らかになっている事実の量のバランスがとれず、何かしらを伝えなければならないメディアを過剰報道に向かわせました。

そこで、そもそも我々は何を知りたいのか、そしてなぜ知りたいのかについて少し考えてみたいと思います。

 

知りたさの動機、好奇心は、二つに分けることが出来ると思います。一つは、明日の天気やコアラの生態など、知らない状態が不安を呼び起こさない場合です。もう一つが、今回の事件についての詳細など、知らないことが落ち着かない状態にさせる場合です。一見すると、事の重大さがこれらの違いのように思えますが、注目されない重大事件も多々あることを考慮すれば、違いは重大さではなくスキャンダル性にあるといえます。

ここで、事件の重大性とスキャンダル性の区別を整理すると、重大性というのは社会に対する実際的な影響・危険度に、一方、スキャンダル性は、前例のなさ/予見の難しさに由来します。つまり前者は社会にとっての現実的なリスクであり、後者は社会という構造そのものへのリスクです。なぜなら、ある犯罪が我々の想像を超える時、それは我々の常識的倫理規範を脅かすものであり、つまりは社会が社会として成り立つ為の信頼を破壊するものです。

このような状況下で、「常識的」の裁定をする大衆が、団結しその脅威に対抗する為、対抗する対象/怒りの矛先を求めます。不安を和らげる為に、知りたいという欲求が生まれ、知ることが出来なければ不安は増す、こうして我々はスキャンダラスな事件について、犯人の顔や名前などを見たがります。

先の引用「誰もがメディア評論家」では、内容のない緊急特別番組を皮肉って、「(その番組を見た後で)人が賢くなるかではなく、ましな気持ちになるか(どうかだ)」としています。

副操縦士の顔も名前も我々にとっては結局、捉え所の無いものです。それらの早急な開示は、我々を早めに「ましな気持ち」にするものだったといえるでしょう。

 

もう一つ、知らないことが不安な状態にさせるものがあります。これはソーシャルメディアにおける書き込みです。何かしらのソーシャルメディアを激しく使い込んでいる人は、必要以上に更新情報を監視していて不安な状態にあります。上述のツァイト紙のコラム「常に放送中」は記事の末尾で問いかけます:(こういった報道のあり方は)メディアのせいか、閲覧者/視聴者のせいか。要求を満たす為の時系列報道か、それともそれによって沸き立たされる要求か。

災害時などに、大衆を管理する権力者が、社会的混乱を恐れるがあまりに陥るパニックのことを指す、エリート・パニックという概念があります。この概念を転用するならば、今回の早期報道の流れはメディア・パニックとでもいえるでしょうか。

 

報道機関の各弁明記事において、大衆の知りたさは犠牲者への追悼行為の一環であると言う論調が多く見られました。

被害者へ同情が大きい程、大衆の怒り、加害者への攻撃度は増すことから、大衆は被害者とともにあるという考えでしょうが、私見では、こういう場合の共感はより根源的な集団行動の形態であると思います。恐怖の共有は動物のコミュニケーションの原型であり、一時的な情動の働きです。犠牲者への哀悼というのは、感情の働きによるもので時間が掛かるものです。

 

 

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最後に:最近日本でも、未成年犯罪者の情報を週刊新潮が公開した件がありましたが、このときの根拠も今回と同じく「事件の残虐性と社会に与えた影響の大きさ」を鑑みてというものでした。社会への影響とは何のことでしょうか。地震情報や、まだ捕まっていない犯人グループなど、社会に危険を与え続ける事件ではありません。該当事案の社会への影響の大きさは、社会の事件への好奇心の大きさのことでしょう。これはまさにスキャンダル性です。

先に述べたように、スキャンダル性の高い事件が社会が社会として成り立つ為の契約を大きく損傷するものである以上、週刊新潮の弁疏も理に適っているように聞こえますが、現存の報道規制を守るということも社会の約束の一つです。事の重大さというのは一つの問題、一貫した態度や基準というのはまた一つの別の問題です。

 

 

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脚注(引用した記事は該当部分に典拠)

 

※1

http://www.abendzeitung-muenchen.de/inhalt.airbus-absturz-piloten-beklagen-geheimnisverrat-bei-germanwings-ermittlungen.33179ca9-99f8-40fa-8a77-f182285adffc.html

※2

http://www.faz.net/aktuell/gesellschaft/absturz-in-den-alpen/warum-faz-net-das-bild-von-andreas-lubitz-zeigt-13509080-p2.html

※3

http://www.n-tv.de/panorama/Copilot-wollte-eines-Tages-etwas-tun-article14797286.html

※4

http://www.rki.de/DE/Content/Gesundheitsmonitoring/Gesundheitsberichterstattung/GBEDownloadsT/depression.pdf?__blob=publicationFile